26. 今日くらい、ちょっとは困ってくれてもええやん
駅前の図書館前。
夏の空気は朝からもう暑かった。
日差しは強いのに、図書館の入口付近だけ少しだけ涼しい気がする。ガラス張りの自動ドアの前には、開館を待つ人が何人かいて、その中に湊の姿はすぐに見つかった。
白銀は、少しだけ立ち止まる。
「……」
「……」
「おるやん」
当たり前なのに、ちょっとだけ心臓が鳴る。
湊は白銀に気づくと、自然に手を上げた。
「おはよう」
「……おはよ」
近づく。
それだけなのに、変に意識してしまう。
「早かったね」
「そっちもやん」
「まあ」
短いやり取りのあと、少しだけ間が空いた。
白銀は内心で焦る。
何か言わないと。
普通に。
自然に。
前みたいに。
なのに、何も出てこない。
そのとき。
「今日、いい感じだね」
「っ……」
湊が、あまりにも普通の声で言った。
「何が」
「服」
「似合ってると思う」
「……」
「……」
「なんで開始五秒でそうなん……!?」
白銀は思わず額を押さえた。
無理や。
「何」
「いや、ちょっとは段階ってもんがあるやろ!」
「そう?」
「そうや!」
湊は少しだけ不思議そうな顔をしている。
その顔がまた腹立つくらい無自覚で、白銀は余計に困った。
「……今日、調子おかしいね」
湊が言う。
「誰のせいや思ってるん」
「俺?」
「そうや!」
そう言い返してから、白銀は自分で少しだけ笑ってしまった。
この感じだ。
このテンポなら、まだ何とかなるかもしれない。
◇
図書館の中は静かだった。
二人並んで席を取って、課題のプリントを広げる。
英語、古典、現代文。
やることは普通に多い。
「ここ、分かる?」
湊がプリントを指さす。
白銀はそちらを見る。
顔が近い。
「……」
「……」
「白銀さん?」
「近い」
「え」
湊が少しだけ離れる。
「ああ、ごめん」
「……別にええけど」
でもよくない。
顔が近いだけでこんなに無理なのは、どう考えてもよくない。
「大丈夫?」
「大丈夫ちゃう」
思わず本音が出た。
「いや、大丈夫やけど」
「どっち」
「……」
「……」
「どっちでもええやん」
白銀はそう言って、プリントに目を落とした。
でも集中できない。
視界の端に湊がいるだけで落ち着かない。
それなのに、湊は普通に隣で問題を解いている。
たまにこちらを見て、分からないところを聞いてくる。
その“普通”が、いちいち効く。
「ここ、白銀さんのほうが得意そう」
「何で」
「国語、前から強いし」
「……よう覚えとるな」
「前も教えてもらったことあるし」
その一言に、白銀は少しだけ目を丸くした。
覚えてるんや。
そんな細かいこと。
「何」
「いや」
「……別に」
でも、その“別に”の裏で、かなり嬉しくなっているのを自覚してしまって、白銀はそっとため息をついた。
◇
昼前になって、一旦休憩することになった。
図書館を出て、すぐ近くのカフェへ入る。
「涼し……」
白銀が椅子に座りながら言う。
「今日はほんま暑いな」
「そうだね」
湊も向かいに座る。
アイスコーヒーと、白銀はアイスカフェラテを頼んだ。
「今日は課題、ちゃんと進んでるね」
湊が言う。
「そりゃ一人でやるよりはな」
「俺が役立ってる?」
「……ちょっとは」
「ちょっとなんだ」
「調子乗るからこれ以上言わん」
「乗らないけど」
「その顔がちょっと乗ってる」
湊が少しだけ笑う。
その顔を見て、白銀は思った。
ああ、やっぱり好きなんやな、と。
図書館で隣におるだけでもだめで。
ちょっと褒められてもだめで。
今みたいに笑われるだけでも、胸が変に鳴る。
もう、分かりやすいとかそういう問題じゃない。
「なあ」
白銀がぽつりと言う。
「何」
「うち、今日どう?」
「さっきからそれ好きだね」
「ええやん別に」
湊は少しだけ考えてから答えた。
「いつもより大人っぽい」
「っ……」
ダメだ。
白銀はそのままテーブルに突っ伏した。
「今それ言う……?」
「だめだった?」
「だめではないけど!」
「じゃあ何」
「心の準備がない!」
湊は少しだけ困ったように笑う。
「準備いるんだ」
「いるに決まっとるやろ!」
白銀は顔を上げて抗議した。
でも抗議しながら、自分でも笑ってしまう。
もう無理や。
この人は本当に、何でもない顔でこういうことを言う。
◇
カフェを出たあと、少しだけ寄り道することになった。
文房具屋。
課題に使うノートや付箋を見るだけのはずだった。
「この色、白銀さんっぽい」
湊が言う。
「何で」
「なんとなく」
「なんとなく便利やなあ」
でも、その“なんとなく”が嫌じゃない。
白銀は並んだ付箋の色を見ながら、小さく息を吐いた。
「なあ」
「何」
「今日、うちばっかりあかん気する」
「何が」
「照れんの」
言ってから、自分で少し黙る。
かなり素直すぎたかもしれない。
でも、湊は少しだけ目を細めて、
「そうだね」
と普通に言った。
「ほんま腹立つ」
「なんで」
「今日くらい、ちょっとは困ってくれてもええやん」
かなり本音だった。
湊はそこで少しだけ止まった。
「……」
「……」
「何」
白銀が聞く。
「いや」
「今、ちょっと困った」
「……は?」
「そういうこと言われると、困る」
その返しに、今度は白銀が止まった。
「……」
「……」
「それ、今言う?」
「思ったから」
「その“思ったから”ほんまやめて……」
白銀は顔を押さえた。
もう無理だと思う。
でも、その“困った”が、ちゃんと嘘じゃない気がして。
それだけで今日の意味が少し変わった。
◇
帰り道。
夕方の光が少しだけやわらかくなっていた。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
朝よりだいぶ自然に話せるようになっていた。
いや、白銀の中身はずっと自然じゃなかったけど。
「今日は、ありがと」
湊が言う。
「何で」
「普通に楽しかったから」
「……」
「……」
「それ、ずるい」
白銀が小さく言う。
「何が」
「今日、うちばっかり大変やった気すんねん」
「そうかな」
「そうや」
でも、それでよかったのかもしれない。
しんどかった。
照れた。
ずっと落ち着かなかった。
でも、会ってよかった。
それだけははっきりしていた。
駅前の分かれ道で足が止まる。
「じゃあ」
湊が言う。
「うん」
「また課題やる?」
「……」
「……」
「何その聞き方」
白銀は少しだけ笑った。
「それ、“また会う?”って意味に聞こえるやん」
「だめ?」
「だめちゃうけど」
白銀は少しだけ視線を逸らす。
「……やる」
小さく、でもちゃんと言う。
「次は、もうちょい平気な顔するし」
「今も十分普通だったけど」
「それは嘘やろ!」
でも、その返しがもう少しだけ前向きだった。
駅に向かって歩き出す直前、白銀はふいに振り返る。
「なあ湊くん」
「何」
「今日のこと」
「うん」
「……忘れんといてな」
「忘れないよ」
その返事があまりにも自然で、白銀はまた少しだけ困った。
「……ほんま、そういうとこや」
「何が」
「知らん」
でも、今はそれでよかった。
白銀ルナはもう、戻れない。
そして、そのことを前より少しだけ受け入れられている気がした。




