20. …その顔、今日いちばんむかつく
花火大会の終盤。
夜空いっぱいに、連続で花火が咲いていた。
赤、青、金。大きな音が腹に響いて、川沿いの人たちがいっせいに空を見上げる。歓声と拍手が重なるたびに、祭りの空気も最高潮に近づいていた。
そんな中で。
俺――桐谷湊は、少しだけ困っていた。
理由は単純だ。
右を見れば白銀ルナ。
左を見れば福原七海。
少し後ろには倉持美羅李。
そしてさっきまでより、明らかに空気が変わっている。
特に白銀さん。
「……」
「……」
「何」
「別に」
全然別にじゃない顔だった。
さっき二人で少し離れて話したあとから、白銀さんは妙に静かだ。静かだけど、落ち着いてはいない。むしろその逆で、何かを飲み込めずにいる顔をしている。
でも、それを言葉にはしてこない。
たぶん。
自分の中で、まだうまく整理できていないんだと思う。
そして、そういう微妙な空気を一番楽しんでいそうなのが、七海だった。
「湊」
「何」
「今日、だいぶ大変そうだね」
「他人事みたいに言うな」
「半分は他人事だから」
半分は、なんなんだ。
そう思って七海を見ると、七海は少しだけ笑った。
「でも、思ったより面白い」
「やっぱり楽しんでるだろ」
「かなり」
即答だった。
その会話の横で、白銀さんが少しだけむっとした顔をする。
「福原さん、今日ずっと楽しそうやな」
「うん」
「隠す気もないんや」
「ないね」
「強いなあ」
白銀さんが小さく言う。
その一言に、美羅李が静かに続けた。
「たしかに」
「……」
「……」
「倉持さんまで言うんや」
白銀さんが少しだけ目を細める。
「事実だから」
「静かに刺してくるなあ」
でも、そのやり取りすらどこか軽かった。
修羅場のはずなのに、妙にテンポがいい。
たぶん誰も、本気で空気を壊したいわけじゃないんだと思う。
ただ、少しずつ。
少しずつだけ、みんなが前に出てきている。
◇
最後の連発が終わると、夜空は一気に暗くなった。
そのぶん、周りのざわめきが急に近くなる。
「終わったなあ」
白銀さんがぽつりと言う。
「うん」
「……終わってしもた」
その言い方が少しだけ惜しそうだった。
七海が空を見上げたまま言う。
「まあ、でもここからでしょ」
「何が」
「帰り道」
その一言に、白銀さんがすぐに振り向く。
「なんで帰り道が本番みたいな言い方なん?」
「だって、花火大会ってそういうものじゃない?」
「福原さん、そのへん妙にラブコメ慣れしてへん?」
「知らないけど」
七海は肩をすくめる。
でも、少し楽しそうだった。
人の流れが帰り方向に動き始める。
「じゃあ、行こか」
白銀さんがそう言って歩き出す。
今度は並びが少し変わった。
最初は俺の隣に白銀さん、その反対側に七海、少し後ろに美羅李。
でも人混みの流れで、すぐにまた入れ替わる。
「うわ、ちょっと待って」
「押すなって」
「そっち行ったら屋台側や」
人が多い。
祭りが終わったあとの流れは、来るとき以上に雑だった。
白銀さんが俺の袖をつかむ。
「これはもう、しゃあないからな」
「また言うんだ」
「大事やろ」
そのとき、反対側から七海の声。
「湊、こっち」
見れば、七海が少し先に出ていた。
「今そっち行ったら、白銀さん転ぶと思うけど」
「え」
「転ばん!」
言いながら、白銀さんは俺の袖をつかむ手に少し力を入れた。
七海がそれを見て、ふっと笑う。
「分かりやすい」
「うるさい!」
そこへ、美羅李が静かに言う。
「はぐれないようにしたいなら、手つなげば?」
「……」
「……」
「倉持さん、それ静かに何言うてるん」
白銀さんが固まる。
「合理的だけど」
「よくないやろ!」
「なんで」
「なんででもや!」
真っ赤だった。
七海がそこでさらっと言う。
「じゃあ、湊」
「何」
「白銀さん転ばせないようにちゃんと見てて」
「見てるよ」
「……」
「……」
「その返し今じゃなくてよかったやろ……」
白銀さんが顔を押さえる。
「ほんま今日あかん……」
◇
駅へ向かう途中、少しだけ人の流れが落ち着く場所があった。
街灯の下。
花火の余韻がまだ残っていて、遠くから祭りの音も少し聞こえる。
「ちょっと休憩しよ」
七海が言う。
誰も反対しなかった。
少し歩いただけなのに、変に疲れていたからだ。
「……なあ」
白銀さんが言う。
「何」
「今日、ほんまに情報量多すぎひん?」
「それはそう」
「花火きれい」
「うん」
「人多い」
「うん」
「浴衣しんどい」
「うん」
「あと」
「何」
「湊くん、普通に刺してくる」
「そんなつもりないけど」
「それが一番あかんねん!」
白銀さんが即ツッコむ。
でも、そのやり取りの途中で、七海が少しだけ前に出た。
「ねえ、湊」
「何」
「ちょっとこっち」
「なんで」
「いいから」
その言い方が妙に自然で、俺は深く考えずに七海のほうへ一歩寄った。
その瞬間だった。
「――っ」
七海が、俺の襟を軽く引いた。
一瞬だけ、視界が近づく。
柔らかい感触。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……」
「……」
「……え」
思考が止まった。
七海が少しだけ顔を離す。
その表情は、意外なくらい平然としていた。
「……反応遅い」
「いや」
「今の」
「うん」
「軽く」
七海は肩をすくめる。
「してみただけ」
してみただけ、で済ませることじゃない。
「……」
「……」
「福原さん?」
白銀さんの声が、やけに静かだった。
「何」
「今、何したん?」
「見たままだけど」
七海がさらっと言う。
「ちょっとキスした」
「ちょっとって何!?」
白銀さんが完全に固まる。
その横で、美羅李も止まっていた。
いつも静かなこの人が、今ばかりは本当に無言だった。
「え、ちょ、待って」
俺の声もだいぶおかしかった。
「なんで」
「なんでって、したかったから?」
七海が小さく首をかしげる。
「それに」
「反応見たかったし」
「……」
「……」
「湊」
「何」
「顔、真っ赤」
その一言で、さらに自覚してしまった。
熱い。
顔が、耳が、たぶん首まで熱い。
今まで白銀さんに何を言われても、どこか平然としていられたのに。
今は無理だった。
「……」
「……」
「ほんまや」
白銀さんがぽつりと言う。
「今日いちばん照れとる」
「……うるさい」
「初めて見たかも」
七海が面白そうに言う。
「湊がここまで分かりやすいの」
「ちょっと黙ってほしい」
「無理」
さらっと返される。
その一方で、白銀さんの顔は笑っていなかった。
笑えないんだと思う。
「……福原さん」
「何」
「それ、反則やろ」
かなり小さい声だった。
「なんで?」
「なんでもや」
「それに」
白銀さんは少しだけ唇を噛む。
「うち、まだ……」
そこまで言って止まる。
「……」
「……」
「白銀さん?」
「何でもない!」
即座に逸らした。
でも、その顔は明らかに悔しそうだった。
◇
「……へえ」
静かな声。
美羅李だった。
その声に、場の空気がまた少し変わる。
美羅李は俺ではなく、七海を見ていた。
「そういうことするんだ」
「するよ」
七海はあっさり答える。
「ダメだった?」
「ダメじゃない」
美羅李はゆっくり首を振る。
「でも、そういうのは」
「ちゃんと順番守るタイプかと思ってた」
「何その評価」
「なんとなく」
その言い方は穏やかだった。
けど、目は笑っていない。
「……」
「……」
「え、ちょっと待って」
俺が言う。
「なんでそこで火力上がるの」
「上がってないよ」
美羅李が言う。
「ただ、ちょっとだけ」
「今のは覚えておこうかなって思っただけ」
その一言に、白銀さんがぴくっと反応する。
「倉持さん、それ地味に怖いねん」
「そう?」
「そうや」
でも美羅李は本当に不思議そうだった。
それが逆に怖い。
「湊」
七海が言う。
「何」
「今日、帰れそう?」
「どういう意味」
「精神的に」
「……」
「……」
「無理かもしれない」
正直に答えると、七海が笑う。
「だよね」
◇
そのあと、空気を変えたのは白銀さんだった。
「……なあ」
ぽつりと呟く。
「何」
「うちも」
そこまで言って止まる。
全員がそっちを見る。
「……」
「……」
「白銀さん?」
「今は言わへん!」
ばんっと自分の額を軽く叩いた。
「今言うたら、絶対おかしなる!」
「十分おかしいけど」
「湊くん黙っといて!」
白銀さんは顔を真っ赤にしたまま、でもちゃんと前を向いていた。
その顔を見ていると、悔しいのも、焦っているのも、でもそれ以上に、自分の気持ちを無視できなくなっているのが分かった。
「……でも」
白銀さんは、少しだけこっちを見た。
「次は、うちが困らせるからな」
その言い方は、いつもの“照れさせたいゲーム”みたいだった。
でも、今はもう少しだけ違う。
たぶん本人も、それを分かっている。
「楽しみにしてる」
俺が言うと、白銀さんは一瞬だけ止まって、それから顔を背けた。
「その顔、今日いちばんむかつく」
「どんな顔」
「めっちゃ照れてる顔」
七海が横で吹き出す。
「たしかに」
「ほんま、今の湊すごいで?」
「言わないでほしい」
「無理」
「全員無理そうだね」
美羅李まで小さく笑っていた。
◇
駅前で解散する流れになった。
もう祭りのざわめきも少し遠くなっていて、代わりに帰る人たちの足音や話し声が広がっている。
「じゃあ、また」
七海が言う。
「うん」
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「あと」
七海が少しだけ目を細めた。
「今のは忘れなくていいよ」
「……」
「……」
「帰っていい?」
「だめ」
笑ってそう言うと、七海は先に歩き出した。
強いな、と改めて思う。
その横で、美羅李が一歩前に出る。
「湊」
「何」
「私も、次は遠慮しないから」
「それ宣言するんだ」
「したほうが分かりやすいでしょ」
それだけ言って、小さく手を振る。
「またね」
「ああ」
美羅李も去っていく。
残ったのは、俺と白銀さんだった。
「……」
「……」
「何」
白銀さんがじっと見てくる。
「何でもない」
「絶対何かあるでしょ」
「ある」
認めるんだ。
「でも」
「何」
「今は、言わへん」
その言い方は、少し悔しそうで、少しだけ強がっていた。
「せっかくやし」
「うん」
「もうちょいちゃんと、自覚してから言う」
「……」
「……」
「白銀さん」
「何」
「それ、かなり大事なこと言ってる気がする」
「せやから今は言わへんのやって!」
また赤くなる。
でも、その目は逃げなかった。
「じゃあまたな」
白銀さんが言う。
「ああ、また」
「……今日のこと、忘れたら許さんで」
「どのこと」
「全部や!」
そう言って、白銀さんは少しだけ早足で去っていった。
夜風が、銀色の髪を揺らす。
立ち尽くしたまま、俺は深く息を吐いた。
花火大会は終わった。
でも。
たぶん本当に始まるのは、ここからだ。
そう思った、そのとき。
スマホが震えた。
画面を見る。
差出人は――白銀さん。
『なあ湊くん』
『もし次、うちが同じことしたら』
そこでメッセージは途切れていた。
そして、数秒後。
もう一通、続きが来る。
でも。
それを開く前に、俺の心臓がまた一回、大きく鳴った。




