19. …これ、もう誤魔化されへんかもしれん
夜空に、二発目の花火が咲いた。
白銀さんの手が人波の向こうへ離れて、代わりに俺の手首を掴んだのは――倉持美羅李だった。
「湊、こっち」
静かな声だった。
けど、花火の音の中でもちゃんと聞こえた。
「白銀さんが」
「見えてる」
美羅李は短く言って、少し先を見た。
その視線の先。
人に押されて少し流された白銀さんが、こっちを振り返っていた。
目が合う。
一瞬だけ、白銀さんの顔に焦りが浮かぶ。
その次の瞬間。
「ちょ、待ってや!」
白銀さんは浴衣の裾を押さえながら、人の波をかき分けて戻ってきた。
「はぐれるかと思った……!」
「大丈夫?」
「大丈夫ちゃう!」
言い切ってから、白銀さんは一度呼吸を整える。
それから、ちらっと俺の手首を見る。
そこにはまだ、美羅李の手がかかっていた。
「……」
「……」
「倉持さん」
「何?」
「それ、まだ掴んどる」
美羅李は少しだけ瞬きをして、それからすっと手を離した。
「ごめん」
「いや、別に」
そう返した直後。
「別にええけど」
白銀さんも、少しだけ早口でそう言った。
でも全然、別に良さそうではなかった。
横で七海が、口元を押さえる。
「……湊」
「何」
「今、かなり面白いよ」
「お前はな」
七海は吹き出した。
「白銀さん、分かりやすすぎる」
「うるさい!」
白銀さんがすぐに言い返す。
「これは事故やし!」
「事故だったの、最初だけじゃない?」
「福原さん!?」
浴衣の袖を揺らしながら、白銀さんが真っ赤になる。
「みんなして、うちで遊んでへん!?」
「ちょっとだけ」
七海が即答した。
「正直やな!」
でも、その声の端には、はっきり焦りが混ざっていた。
◇
人波を抜けて、川沿いの少し広い場所まで移動する。
花火はまだ上がり続けていて、どん、と腹に響く音のたびに、夜空が一瞬だけ明るくなった。
場所を確保して立ち止まる。
けど、空気はぜんぜん落ち着かない。
「……」
「……」
「何」
白銀さんが、じとっとこっちを見ていた。
「何か言いたそう」
「言いたいことはある」
「何」
「いっぱいある」
「多いな」
七海が横で笑う。
「順番待ち必要だね」
「いらん!」
白銀さんはそう言い返してから、ふいっと前を向いた。
でも、たぶん我慢しきれなかったんだろう。
数秒後にはまたこっちを向いていた。
「なあ湊くん」
「何」
「さっきのは」
「うん」
「ほんまに、ほんまに事故やからな?」
「どっちが」
「はぐれたとき袖掴んだやつ!」
「うん」
「別にその……なんていうか」
「なんていうか?」
「……無意識やったし」
「そっか」
「その“そっか”何やねん!」
白銀さんがまた赤くなる。
「もっとこう、普通に流してくれへん?」
「今の、わりと普通だったけど」
「普通ちゃう!」
そのツッコミが花火の音に少し重なって、妙に可笑しかった。
でも、白銀さんは笑っていなかった。
いや、笑えないんだと思う。
さっきから明らかに、白銀さんの様子がおかしい。
それは分かっていた。
◇
「たこ焼き、冷めるよ」
美羅李が静かに言う。
ようやく、さっき買ったものを持っていたことを思い出した。
「ほんまや」
白銀さんがりんご飴を見下ろす。
「なんか、もう食べるタイミング見失った」
「開始十分で?」
七海が言う。
「イベント多すぎるから」
「たしかに」
俺もそう思う。
白銀さんはりんご飴を一口かじって、すぐに顔をしかめた。
「固い」
「りんご飴だからね」
「知っとる!」
でも、そのやり取りで少しだけ空気が緩む。
七海がたこ焼きをつまみながら俺を見る。
「湊、焼きそばどう?」
「普通に美味しい」
「感想が薄い」
「花火見ながら食べると大体何でも美味しいでしょ」
「それはそう」
美羅李も小さく頷いた。
四人で夜空を見る。
花火の光が順番にみんなの顔を照らしていく。
水色の浴衣、薄紫の浴衣、白地の浴衣。
さっきまで少しぎこちなかったのに、こうして並んで空を見ていると、不思議と変な一体感みたいなものがあった。
……少なくとも、表面上は。
◇
「なあ」
白銀さんがぽつりと言った。
「何」
「トイレ行く」
「急だね」
「急やねん」
白銀さんは少しだけ俺を見る。
「……ついてきて」
「え」
「いや、トイレまでちゃうで!?」
自分で言ってから、白銀さんは一瞬で顔を赤くした。
「そこまで言うてへん!」
「じゃあどこまで」
「途中までや!」
七海が完全に笑っていた。
「白銀さん、今日ほんとすごいね」
「福原さんはちょっと黙っといて!」
でも、声の勢いほど余裕はなさそうだった。
「行こ」
白銀さんがそう言って歩き出す。
俺もそのあとを追う。
少し離れた仮設トイレの近くまで来たところで、白銀さんが立ち止まった。
「……」
「……」
「ここでいい?」
「うん」
でも白銀さんは、その場から動かなかった。
「白銀さん?」
「……なあ」
「何」
「今日、ちょっとおかしいよな。うち」
「少しは」
「やんな」
白銀さんは小さくため息をついた。
「自分でも分かる」
「何が」
「なんか、全部気になんねん」
夜空を見上げるでもなく、白銀さんは足元を見たまま言う。
「福原さんも」
「あの子も」
「花火も」
「人の多さも」
「……湊くんが、ちょっと離れるだけでも」
そこで言葉が止まった。
「……」
「……」
「白銀さん」
「何」
「それ、結構大事なこと言ってるよ」
「言わんといて」
かなり小さい声だった。
「今、自分でも分かってきたとこやねん」
その言い方に、俺は何も返せなくなる。
花火の音が響く。
空がまた一瞬だけ明るくなる。
その光に照らされた白銀さんの横顔は、さっきまでみたいな照れだけじゃなかった。
もっと困っていて、もっと真剣だった。
「なあ湊くん」
「何」
「うちさ」
一回、言葉を切る。
それから、少し笑った。
「たぶん、今までずっと“気になる”でごまかしてたんやと思う」
「……」
「でも」
白銀さんは、ようやくこっちを見た。
「もう、それ無理かもしれへん」
その一言がやけに静かで、でも妙に重かった。
「何が?」
そう聞くと、白銀さんは少しだけ眉を寄せた。
「聞くんや」
「だめだった?」
「だめではないけど……」
白銀さんは浴衣の袖をきゅっと握る。
「今の流れで言わせるん、ずるない?」
「そうかも」
「そうやろ」
でも、そのあとで白銀さんは小さく息を吐いた。
「……たぶん、うち」
「何」
「湊くんが他の子と一緒におるん、嫌なんやわ」
その言い方は、告白というより確認に近かった。
自分で口にして、ようやく形になった感情を、自分で見つめているみたいな。
「それって」
「言わんで」
すぐに返ってくる。
「今それ以上言われたら、ほんまに無理」
顔が真っ赤だった。
でも、目は逸らさない。
「……今日、福原さんとも」
「あの子とも」
「ずっと一緒におって」
「なんか、全部もやもやして」
「それで、はぐれそうになったとき」
「めっちゃ怖かった」
そこまで言ってから、白銀さんは小さく笑った。
「花火大会で何言うてんねやろな、うち」
「でも、分かりやすい」
「うるさい」
「今のは、そういう意味じゃない」
「……」
「ちゃんと伝わったって意味」
そう言うと、白銀さんは数秒だけ黙った。
それから、耳まで赤くしながら小さく言う。
「……やっぱ、そういうとこやねん」
「何が」
「ずるいとこ」
でも、その声は少しだけ嬉しそうだった。
◇
「――おーい」
少し離れたところから、七海の声が飛んできた。
「白銀さん、戻る?」
「……」
「……」
「戻る」
白銀さんはそう言ってから、でもすぐには歩かなかった。
「なあ」
「何」
「今の」
「うん」
「なしにはせんといて」
「しないよ」
「……」
「……」
「それもずるい」
でも、今度は笑っていた。
二人で元の場所に戻る。
七海はこっちを見るなり、すぐに察した顔をした。
「へえ」
「何」
白銀さんがむっとする。
「いや、思ったより早かったなって」
「何がや」
「色々」
美羅李は何も言わなかった。
ただ、白銀さんの顔を見て、それから俺を見て、小さく目を細めただけだった。
たぶん、この人も何か分かったんだろう。
「次、来るよ」
七海が夜空を見上げる。
その声に合わせたみたいに、大きな花火が上がった。
四人で空を見る。
でも。
さっきまでと同じ四人なのに、何かが決定的に違っていた。
白銀さんは、たぶんもう前の位置には戻れない。
そして俺も、それに気づいてしまった。
夜空に咲いた大きな花火が、ゆっくり散っていく。
その下で。
白銀さんは小さな声で言った。
「……花火大会、まだ終わってへんからな」
その言い方は、いつもの“照れさせたいゲーム”の続きみたいだった。
でも。
もう前と同じ意味じゃないことくらい、さすがに分かった。
そして、その瞬間。
遠くで、ひときわ大きな歓声が上がった。
最後の連発が始まる。
夜空いっぱいに広がる光を見上げながら、俺は思う。
たぶん、本当に終わっていないのは――
花火大会だけじゃない。




