15.今日こそ、夏休み前にちゃんと勝ったる
七月。
教室の窓は全開なのに、風はぬるかった。
梅雨が明けたばかりの空はやたら青くて、外から聞こえてくる運動部の声まで、いつもより少しだけ眩しく感じる。教室の後ろの壁に貼られた七月の予定表には、もうすぐ終業式だの、夏休み開始だの、そんな文字が並んでいた。
つまり。
夏休みが近い。
それは、浮ついた空気の理由として十分だった。
「なあ湊くん」
朝、席に着くなり、斜め前から白銀ルナがくるっと振り返った。
最近の定位置だ。
俺――桐谷湊が窓側の後ろ、白銀さんがその斜め前。席替えしてから少し距離はできたけど、結局この人は普通に話しかけてくるし、普通に後ろまで来る。
「何」
「七月やで」
「そうだね」
「夏休み前やで」
「そうだね」
「その返しばっかやな!」
朝から元気だなと思う。
白銀さんは少しだけ机にもたれながら、わざとらしくため息をついた。
「……夏休み入ったら、今みたいに毎日顔見れへんやん」
「たしかに」
「たしかにやなくて」
「もうちょい何かあるやろ」
「寂しい?」
「……」
「……」
「今のなし!」
即座に顔を赤くして引っ込む。
「違うねん、そういう言い方されたら、なんかうちだけ変みたいやん!」
「変ではないと思うけど」
「それもそれで困るねん!」
教室の何人かが笑っていた。
最近、白銀さんが俺と話してるときだけ分かりやすくなるのは、もうクラスの共通認識みたいなものだ。
「とにかくや」
白銀さんは人差し指をこっちに向ける。
「今日こそ再開する」
「何を」
「照れさせたいゲーム」
まだ続いてたのか、それ。
「再開って、終わってたっけ」
「倉持さんの件とか色々あって、ちょっと中断しとったやろ」
「中断してた認識なんだ」
「うん。せやから今日からまた仕切り直しや」
びしっと宣言する。
「夏休み前に、ちゃんと一回は勝つ」
「一回も勝ってない前提なんだ」
「引き分けはあった!」
「自己申告だったけど」
「うるさい!」
でも、その顔はどこか楽しそうだった。
◇
一時間目の前の短い休み時間。
白銀さんはさっそくゲームを始めてきた。
「なあ」
「何」
「今日のうち、ちょっと夏っぽない?」
見ると、いつもの制服姿に、髪留めだけ少し違っていた。淡い水色の小さな飾りがついていて、銀髪によく合っている。
「髪留め変えた?」
「……」
「……」
「気づくんや」
「分かりやすいし」
「っ……!」
白銀さんが一瞬止まる。
「いや、そこは『似合ってる』とかあるやろ!」
「似合ってるよ」
「今足したな!?」
「本当だけど」
「だからそれがあかんのやって……!」
白銀さんは顔を押さえた。
でも、耳まで赤いくせに口元は少し緩んでいる。
「勝負になってないね」
「まだ始まったばっかや!」
◇
一時間目の授業が始まる。
現代文。
先生が黒板に向かっている間、白銀さんは何度か振り返ってきた。
目が合う。
逸らす。
数十秒後、また見る。
分かりやすい。
そして、しばらくしてから小さく袖を引かれた。
「なあ」
「何」
「ちょっと顔近づけて」
「なんで」
「小声で言うことある」
仕方なく少しだけ身を寄せる。
その瞬間、白銀さんは俺の耳元で囁いた。
「今日、放課後ちょっと寄り道せえへん?」
「……」
「……」
「どうしたん」
「いや」
「今の、少し困るね」
「ほんまに!?」
白銀さんがぱっと顔を上げる。
勢いで立ち上がりそうになって、慌てて座り直した。
「や、やった……!」
「声大きい」
「いや、ちゃうねん、今のは、なんか、ちょっとだけ勝った気がして……」
嬉しそうである。
「誘われて困ったん?」
「少し意外だったから」
「それでもええ!」
白銀さんは小さくガッツポーズをした。
「一ポイントや!」
「ポイント制なんだ」
「今できた」
最近、ルール追加が雑だなと思う。
◇
昼休み。
いつものように白銀さんは弁当を持って後ろまで来た。
「ここで食べる」
「うん」
「断らへんの、もう慣れたな」
「毎日だし」
「なんかそれはそれで悔しい」
「なんで」
「特別感なくなるやん」
特別感が欲しかったのか。
白銀さんはそう言いながら机を寄せ、弁当箱を開けた。
今日は卵焼きとミニトマト、それから小さな唐揚げが入っている。
「美味しそう」
「……」
「何」
「今日も普通に褒めてくるんやな思って」
「思ったから」
「その“思ったから”ほんま便利やな」
少し笑ってから、白銀さんは箸で唐揚げを一つつまんだ。
「なあ」
「何」
「これ、食べる?」
「くれるの」
「うん」
「じゃあもらう」
そう言って普通に受け取ろうとしたら、白銀さんは箸を引っ込めた。
「ちゃうちゃう」
「何が」
「こうや」
白銀さんは箸で唐揚げをつまんだまま、少し身を乗り出す。
「……あーん」
「……」
「……」
「白銀さん」
「何」
「教室だけど」
「分かっとる」
「めっちゃ見られてるけど」
「分かっとる!」
それでも引かない。
周りから、案の定ざわついた空気がする。
「白銀さん攻めるなあ」
「桐谷どうする」
「うわ、これ朝のポイント取りに来てるだろ」
「うるさい!」
白銀さんがそっちにツッコんでから、またこっちを見る。
「ほら、早よ」
「……」
長引くと余計に面倒だなと思って、俺は普通にそれを食べた。
「ん」
「……」
「美味しい」
「……」
「白銀さん?」
白銀さんはそのまま止まっていた。
「なんで食べるん!?」
「くれたから」
「そうやけど!」
「もっとこう、困るとか、照れるとかあるやろ!」
「少しは困ったよ」
「少しなん!?」
また赤くなる。
しかも今度は、自分からやっておいて自分が耐えられていない。
「うわ……またうちがダメージ受けてる」
「ゲームだよね」
「ほんまや……」
でも、そのあとで白銀さんは少しだけ口元を緩めた。
「でも、今のはだいぶ攻めた」
「そうだね」
「次はもっとちゃんと効かせる」
どこから来るんだ、その前向きさ。
◇
午後の授業中も、白銀さんの“再開したゲーム”は続いた。
英語の時間に問題を当てられてうまく答えれば、「今のどうやった?」と聞いてきて、俺が「よかった」と答えるだけで照れる。
移動教室の帰りに少しだけ腕が触れれば、「今のわざと?」と聞いてきて、自分のほうが赤くなる。
化学の授業でノートを見せるとき、必要以上に近づいてきて、「近い?」と聞きながら自分から距離を離す。
要するに、いつも通りだった。
でも今日は、ひとつだけ昨日までと違うところがある。
白銀さんの中に、少しだけ焦りみたいなものがあることだ。
夏休み前。
毎日顔を合わせる今の時間が、もうすぐ一旦切れる。
それを意識しているからこそ、今日の白銀さんはいつもより少しだけ積極的で、少しだけ空回っていた。
◇
放課後。
ホームルームが終わって、教室の空気がほどけていく。
鞄を持ち上げたところで、白銀さんがこっちに来た。
「なあ」
「何」
「朝の続き」
「寄り道?」
「うん」
「ほんまにする?」
「別にいいけど」
「……っ」
白銀さんが一瞬だけ嬉しそうな顔をした。
「じゃあ決まりや」
「どこ行くの」
「コンビニ」
「寄り道の規模が小さいね」
「ええやろ別に!」
でも、その軽さがこの人らしい。
二人で校門を出る。
外はまだ明るくて、夕方の風にも少しだけ熱が残っていた。
「なあ湊くん」
「何」
「今日の勝負、今んとこどう思う?」
「白銀さんが少し優勢」
「……!」
白銀さんがぴたりと止まる。
「ほんまに!?」
「うん」
「どこで」
「朝の放課後誘うやつと、昼の唐揚げ」
「……」
「……」
「やった」
小さく、でもはっきり言った。
それから白銀さんは少しだけ笑う。
「やっと一回ちゃんと勝てそうや」
「まだ終わってないけど」
「最後まで気ぃ抜かんで?」
「白銀さんが?」
「なんでや」
そんなやり取りをしながら歩く。
コンビニでアイスを買って、店の前で少しだけ立ち話をする。
空はまだ明るい。
夏休み前の七月の空気は、どこか落ち着かない。
「なあ」
「何」
「夏休み入ったら、今みたいに毎日話せんやん」
「そうだね」
「……やっぱ寂しい?」
「少しは」
「……っ」
白銀さんが目を見開く。
「ほんまに?」
「うん」
「……」
「……」
「それ、ずるい」
「何が」
「今のは反則やろ」
白銀さんはアイスを持ったまま少し俯く。
頬が赤い。
「うちが先に言おうと思ってたのに」
「何を」
「……別に」
そう言いながら、少しだけ笑う。
それから顔を上げて、ちゃんと言った。
「でもまあ」
「何」
「夏休み入っても、照れさせたいゲームは終わらへんからな」
「続くんだ」
「当たり前や」
「簡単に終わったらつまらんやろ?」
「長いゲームだね」
「長いで」
そう言ってから、白銀さんはほんの少しだけ目を細めた。
「せやから」
「何」
「ちゃんと相手してな」
「するよ」
「……」
「……」
「それや」
白銀さんが顔を逸らす。
「そういうとこや」
「何が」
「……知らん」
でも、その顔は少し嬉しそうだった。
アイスが少し溶けてきて、白銀さんが慌てて一口食べる。
「うわ、やば」
「夏だね」
「それっぽいこと言うな」
そのやり取りが、妙に心地よかった。
◇
帰り道の分かれ道。
「また明日な」
白銀さんが言う。
「ああ、また明日」
「……夏休み前に、あと一回はちゃんと勝つから」
「楽しみにしてる」
「その余裕が腹立つねん」
でも、笑っている。
七月の風が、銀色の髪を揺らした。
もうすぐ夏休みが来る。
今の毎日が少しだけ変わる。
でも、たぶん。
白銀ルナはその変化すら、ゲームの続きを楽しむ理由に変えてしまうんだろう。
そう思うと、少しだけ可笑しかった。




