14. ……なあ湊くん、あの子と何があったん?
月曜日の朝。
六月の空は薄い雲に覆われていて、日差しは弱いのに空気だけが少し蒸していた。
週の始まり特有のだるさが教室全体に漂っていて、ホームルーム前の二年A組は、いつもより少しだけ静かだった。
――少なくとも、俺が教室に入るまでは。
「おはよ、湊くん」
斜め前の席から、いつも通りの声。
白銀ルナが、頬杖をついたままこっちを見ていた。
「おはよう」
「今日、ちょっと眠そうやな」
「昨日、少し考えごとしてたから」
「……ふーん」
その“ふーん”に、さっそく何かが含まれている気がした。
俺が席に着くと、白銀さんはくるっと体をひねって、椅子の背にもたれるみたいにこっちを向く。
「なあ」
「何」
「土曜、どうやったん?」
やっぱりそこか。
しかも朝一番で。
「どうって」
「そのままや」
白銀さんは小さく眉を寄せる。
「あの子と会ったんやろ?」
「会ったよ」
「……」
「……」
「それだけ?」
「それ以外に何を言えば」
「色々あるやろ!」
白銀さんが小さく机を叩く。
「思い出したんかとか」
「どこ行ったんかとか」
「なんか言われたんかとか」
一気に出てきた。
かなり気になっていたらしい。
「思い出したよ」
「っ……」
「どこ行ったん?」
「駅前のモール」
「それで」
「本屋行って、昼食べて、少し歩いた」
「……」
「……」
「普通にデートみたいやん」
最後だけ小さかった。
「そうかな」
「そうやろ」
白銀さんは視線を逸らし、指先で机をとんとん叩く。
「で?」
「何」
「誰やったん、結局」
「幼なじみ」
その瞬間、白銀さんの指が止まった。
「……」
「……」
「ほんまに?」
「うん」
「十年くらい会ってなかったらしい」
「……へえ」
へえ、のわりにはだいぶ強く反応していた。
そこへ、教室の前のドアがまた開いた。
次の瞬間。
「おはよう、湊」
静かな声。
それだけで、教室の空気が少し変わる。
入口に立っていたのは、倉持美羅李だった。
細いフレームのメガネ。黒髪。今日は制服姿で、土曜の私服よりも少しだけ近寄りがたい雰囲気がある。
でも、その目はまっすぐ俺を見ていた。
「……おはよう」
反射的に返すと、美羅李はほんの少しだけ笑った。
「ちゃんと覚えてた」
「まあ、さすがに」
「よかった」
それだけ言うために来たみたいな自然さだった。
でも、そのやり取りを教室中が聞いている。
当然、白銀さんも。
斜め前で完全に固まっていた。
「じゃあ、またあとで」
美羅李はそれだけ残して、教室を出ていく。
数秒、沈黙。
そして。
「……なあ湊くん」
白銀さんが、かなり静かな声で言った。
「何」
「今の」
「うん」
「めっちゃ自然やったな」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「そう?」
「そうや」
白銀さんは机に頬杖をつき直す。
でも視線はこっちじゃなく、さっき美羅李が消えていったドアのほうへ向いていた。
「“ちゃんと覚えてた”って」
「なんか強いな」
「……まあ、そうかも」
「自覚あるんや」
「なんの」
「分からんのやったらええ」
ちょっと拗ねてる。
でも、怒っているというよりは、落ち着かない感じだった。
◇
一時間目の授業が始まっても、白銀さんはどこか上の空だった。
前を向いていても、何度かこっちを見てくる。
そのたびに目が合うと、今度は逸らすより先に、少しだけむっとした顔をする。
完全に機嫌が変だ。
現代文の授業中、先生が黒板に向かっている隙に、小さく声が飛んできた。
「なあ」
「何」
「土曜、ほんまに思い出したん?」
「思い出したよ」
「全部?」
「全部ではないけど、かなり」
「……そっか」
それだけ言って、また前を向く。
でも数十秒後、また袖を引かれる。
「なあ」
「何」
「……可愛かった?」
急にそこへ行くのか。
「誰が」
「倉持さん」
その名前を言う声が、ほんの少しだけ低い。
「まあ、可愛いと思う」
「……っ」
分かりやすく反応した。
「でも」
続けると、白銀さんがぴたりと止まる。
「白銀さんとはタイプが違う」
「……」
「……」
「それ、フォローのつもり?」
「違うけど」
「じゃあ何」
「思ったこと」
「それが一番困るって何回言うたら分かるん……」
白銀さんは教科書で口元を隠した。
でも、耳はしっかり赤い。
◇
休み時間。
前の席から海斗がやってくる。
別クラスなのに、こういう匂いのする話にはすぐ寄ってくる。
「よう、湊」
「なんでいるんだよ」
「朝の続きが気になるから」
そう言って海斗は笑った。
「で? あれが幼なじみ?」
「そう」
「マジで?」
「うん」
「うわ、強」
率直な感想だった。
そして海斗は、そのまま白銀さんを見る。
「白銀さん、かなり強敵じゃないですか?」
「強敵ちゃうし」
「気にしてませんけど、みたいな顔してますよ」
「してへん!」
白銀さんが即否定する。
でも、やっぱり速すぎる。
「だってさ」
海斗は楽しそうに指を折る。
「十年ぶりの幼なじみ」
「美人」
「向こうはずっと覚えてる」
「で、朝からあの自然さ」
「ラブコメの強キャラじゃん」
「ラブコメって言うなや」
白銀さんが少しむっとする。
「でも……」
「でも?」
「……ちょっと強いなとは思った」
かなり小さい声だった。
海斗が吹き出しそうになる。
「白銀さん、めっちゃ素直」
「うるさい」
白銀さんはそっぽを向いてから、でもすぐに俺を見る。
「なあ」
「何」
「土曜、何話したん」
「色々」
「雑やな」
「本屋行った話とか、昔の話とか」
「……思い出の話、ってこと?」
「まあ」
「……」
そこだけ、また静かになる。
「白銀さん?」
「いや」
「なんか、ええな思って」
「何が」
「そういうの」
その言い方が妙に素直で、少しだけ返事に困る。
「そっか」
「うん」
「でもまあ」
白銀さんは少しだけ唇を尖らせた。
「今のうちにはないやつやし」
「何が」
「十年分」
その一言は、軽いのに少しだけ重かった。
◇
昼休み。
白銀さんはいつも通り弁当箱を持って後ろまで来た。
席替え後も、ここだけは本当に変わらない。
「ここで食べる」
「どうぞ」
「最近その返ししかないな」
「便利だから」
「便利なん好きやな」
白銀さんは席に座って弁当を開ける。
でも今日は、箸を持つ前にじっとこっちを見た。
「なあ湊くん」
「何」
「今日のうち、ちょっと変やと思う?」
「少し」
「やっぱり?」
「うん」
「……最悪や」
そう言いながら、白銀さんは少し笑った。
「でも、自分でも分かる」
「何が」
「なんか落ち着かへん」
「倉持さんのこと?」
「……うん」
すんなり認めた。
「別に嫌とかちゃうねん」
「うん」
「ただ」
「何」
「強いなって思うだけ」
白銀さんは箸で卵焼きをつつく。
「昔から知ってて」
「ちゃんと覚えてて」
「しかも、ああいう静かな感じで来るの」
「うちにはできへんし」
「白銀さんには白銀さんのやり方があるじゃん」
「……それ、励ましてる?」
「少し」
「ふーん」
そこで白銀さんは少しだけ目を細めた。
「じゃあ、うちのやり方って何」
「からかう」
「もっと他にあるやろ!」
ばんっと机を叩く。
そこへ海斗がまた笑いながら口を挟んだ。
「白銀さんは分かりやすいとこが武器ですよ」
「海斗くんは黙って」
「はい」
「でも」
白銀さんは少しだけ視線を落とした。
「分かりやすいだけやと、負けそうやなって思う時ある」
その言葉は、今までよりずっと本音っぽかった。
俺は少しだけ考える。
それから、言った。
「俺は分かりやすいほうが好きだけど」
「……っ!」
白銀さんが固まる。
「今それ言う!?」
「思ったから」
「その“思ったから”で全部押し切るのほんまやめて!」
でも赤くなっている時点で、あまり効いていない気がする。
「好きって」
「そういう意味ちゃうやろ!?」
「どっち?」
「知らん!」
結局そうなる。
でも、さっきまでより顔色は少し明るかった。
◇
放課後。
帰り道は、昨日より少しだけ涼しかった。
空は曇っているのに、風だけがやけに軽い。
「なあ湊くん」
「何」
「今日、倉持さんとまた会うん?」
「会わないと思う」
「そっか」
そこで白銀さんは少しだけ歩幅をゆるめた。
「なあ」
「何」
「うち、今日ずっと変やったよな」
「少し」
「やんな」
「でも、前よりは素直だった」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
白銀さんは少しだけ笑って、それから小さく息を吐いた。
「……気になってしゃあなかったんよ」
「何が」
「倉持さんのこと」
「うん」
「湊くんのこと、昔から知ってるって聞いたら」
「なんか、急に遠いとこおるみたいに見えた」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
「でもな」
白銀さんは続ける。
「よう考えたら、今は今やし」
「十年分なくても」
「今のうちは今のうちやし」
「……」
「……」
「なに」
「いや、白銀さんらしいなって」
「何が」
「ちゃんと前向くところ」
「そうでもせんとやってられへんやん」
そう言ってから、少し照れたみたいに笑う。
「せやから」
「何」
「ちょっと本気出すわ」
「何に」
「照れさせたいゲームに決まっとるやろ」
白銀さんはびしっと俺を指差した。
「幼なじみとか静かな強キャラとか関係ない」
「うちはうちや」
「……」
「……」
「何」
「頼もしいなって」
「っ……!」
白銀さんの顔が一気に赤くなる。
「そういうのがあかんって言うてるやろ!」
「今のは勝ち?」
「全然勝ってへん!」
でも、その声はかなり明るかった。
さっきまでのもやもやは、たぶん全部なくなったわけじゃない。
それでも、白銀ルナはまた前を向くんだろう。
そういう人なんだと思う。
「また明日な」
白銀さんが言う。
「ああ、また明日」
「……次はほんまに困らせるからな」
「難しいと思う」
「むかつく!」
最後にまた赤くなって、白銀さんは笑った。
その顔を見ていると、少なくとも今日は、もう大丈夫そうだと思えた。




