13.思い出せなくてもいいよ。――もう一回、好きにさせるから
土曜日。
六月の空は薄く曇っていて、日差しはやわらかい。
梅雨の合間らしい天気だった。
俺――桐谷湊は、駅前の時計台の下でスマホを見ていた。
時間は、十一時ちょうど。
画面にはメッセージ。
『遅れたら怒るから』
短い一文。
昨日のやり取りを思い出しながら、少しだけ息を吐く。
倉持美羅李。
同じ高校に通っていて、俺のことを知っているらしい女子。
そして、おそらく――幼馴染。
でも、それがまだ“確信”になっていない。
「……」
「悩んでる顔」
声がした。
顔を上げる。
そこに、美羅李がいた。
白いブラウスに薄いカーディガン。黒髪とメガネがよく似合っていて、落ち着いた雰囲気は学校で見たときと変わらない。
「待った?」
「今来たところ」
「その言い方、信用していいの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
少しだけ笑う。
「行こっか」
「うん」
並んで歩き出す。
少しだけ、間が空く。
でもそれは気まずいというより、“何かが始まる前の間”だった。
◇
「それで」
駅前の通りを歩きながら、美羅李が言う。
「どこまで思い出した?」
「少しだけ」
「どこ」
「遊園地」
美羅李の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん多いね」
「まだ断片だけ」
「それでもいい」
美羅李は少しだけ優しく笑う。
「ちゃんと進んでるから」
「……」
「ヒント出す?」
「いいの」
「全部は出さないけど」
「それは分かってる」
「意地悪だから」
「自覚あるんだ」
「ある」
軽く言い切る。
でもそのあと、少しだけ視線を逸らした。
「全部一気に思い出されたら、もったいないし」
「何が」
「今」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
◇
本屋に入る。
人は多いけど、奥のほうは静かだった。
美羅李は迷いなく児童書コーナーへ向かう。
その動きに、妙な既視感があった。
「ここ、覚えてる?」
一冊の本を差し出される。
古いシリーズの冒険小説。
表紙を見た瞬間、何かが引っかかった。
「あ……」
「何かある?」
「読んだことある」
「誰と?」
そこまで言われると、曖昧になる。
「そこまでは」
「そっか」
責めるでもなく、ただ頷く。
「でも、いいよ」
「一個でも思い出したなら」
その言い方がやけに優しかった。
◇
本屋を出て、モールを歩く。
昼前で、人が増えてきていた。
「昔さ」
美羅李がぽつりと言う。
「湊、選ぶの遅かったよね」
「何の」
「お菓子とか」
「今もそうだけど」
「変わってない」
少しだけ笑う。
「遊園地で、ずっと悩んでた」
その言葉で、また少し記憶が動く。
暑い日。
並ぶ列。
横にいた、小さな女の子。
「……あれ」
思わず足が止まる。
「どうしたの」
「白い帽子」
「うん」
「泣きそうな顔」
「……うん」
美羅李の声が少しだけ小さくなる。
「あと」
「名前」
「……」
「呼んでた気がする」
「誰の?」
「……みはり」
言った瞬間。
空気が、少しだけ変わった。
美羅李が、静かに息を吸う。
「それ」
「ちゃんと呼んでた」
「……」
「思い出した?」
「……少し」
「そっか」
その一言だけだった。
でも、十分だった。
◇
フードコート。
少し離れた席に座る。
「……ごめん」
自然に出た言葉だった。
「何が」
「気づかなかったこと」
「いいよ」
即答だった。
「ちょっとだけ寂しかったけど」
「……」
「でも、それも含めていいかなって思った」
「なんで」
「もう一回できるから」
「何を」
「最初から」
その言い方が、やけに静かで、強かった。
「思い出せなくてもいいよ」
美羅李は、まっすぐこっちを見る。
「――もう一回、好きにさせるから」
一瞬、言葉が出なかった。
「それは」
「困る?」
「いや」
困るというより、準備がなかった。
「昔ね」
美羅李は少しだけ視線を落とす。
「湊、言ったんだよ」
「何を」
「“美羅李って名前、きれいだよな”って」
その瞬間。
はっきりと、思い出した。
夕方の公園。
ブランコ。
少し泣いたあと。
「……言った」
「うん」
「覚えてる」
「ずっと」
その言葉が、軽くなかった。
◇
食事を終えて、モールを歩く。
さっきよりも、距離が自然だった。
完全に思い出したわけじゃない。
でも、“知らない人”ではなくなっていた。
「同じ高校だって、最近知ったの?」
「うん」
「春くらい」
「なんで声かけなかったの」
「すぐは無理だった」
「なんで」
「緊張したから」
あっさり言う。
「十年ぶりだよ」
「……」
「湊は普通だったけど」
「普通?」
「うん。いつも通りだった」
少しだけ笑う。
「それ見て、ちょっと安心した」
「何に」
「変わってないなって」
◇
夕方。
駅前に戻る。
「なあ湊」
「何」
「月曜、普通に話しかけてもいい?」
「いいけど」
「よかった」
一歩、近づく。
距離が少しだけ縮まる。
「あと一個だけ」
「何」
少しだけ間。
それから、美羅李はさらっと言った。
「あの子、分かりやすいね」
「……」
「……」
「誰のこと」
「さあ」
わざとらしく目を逸らす。
「でも」
「何」
「可愛いと思うよ」
その言い方が、妙に意味深だった。
「何が言いたいの」
「別に」
「ただの感想」
でも、その“ただの”が全然ただじゃない。
「じゃあね、湊」
「ああ」
「また月曜」
手を振る。
美羅李も、小さく振り返した。
◇
一人になって、少しだけ息を吐く。
十年ぶりの再会。
思い出した記憶。
思い出せていない時間。
そして最後の一言。
「あの子、分かりやすいね」
あれは、たぶん。
気づいている。
全部。
月曜。
確実に、何かが動く。
そう思いながら、俺はゆっくりと駅を離れた。




