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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『審判の旋律』 ~Section 14:解任通知と、三百年ローンの少女~

 ピピピピ、ピピピピ……。


 無機質な電子音が、泥濘と化した不知火湖の湖底に、場違いなほど軽快に響き渡っていた。

 九条一馬は、震える手で泥水に濡れたスマートフォンを拾い上げ、画面に表示された『会長』の文字を凝視したまま、凍りついたように動かない。


 彼の顔色は、湖底のヘドロよりも土気色だった。


「……出ぬのか、九条。雇用主からの、最後の業務命令じゃぞ」


 瑠璃が冷たく言い放つと、九条はビクリと肩を震わせ、まるで死刑宣告を受け入れる囚人のような手つきで通話ボタンを押した。


 そして、その瞬間。


 スマートフォンのスピーカーからではなく、湖畔を取り囲んでいた九条配下の装甲車のスピーカーすべてが、一斉にハウリングを起こし、そして一人の老人の声を轟かせた。


『……ご苦労だったな、九条君。君の長年の献身と、そして最期の不始末に、心からの敬意と……遺憾の意を表するよ』


 その声は、しわがれてはいるが、絶対的な威厳と、氷点下の冷徹さを帯びていた。


 如月コンツェルン総帥、如月弦十郎。瑠璃の祖父であり、この街の真の支配者。

 九条は、スピーカーの声を聞いただけで、その場に平伏した。


「……か、会長……!申し訳……申し訳ありません!!私は……私はただ、会社の利益を……!!」


『……利益? ……何を勘違いしているのかね。我々が君に求めたのは『完璧な遂行』であって、『無様な隠蔽』ではない。……ましてや、私の孫娘に銃を向けるような狂犬を、飼っていた覚えはないよ』


 弦十郎の声には、怒りさえ含まれていなかった。あるのは、壊れた道具を廃棄する際の事務的な淡々しさだけだ。


『……ただいまをもって、君を如月コンツェルン専務取締役、および新市街開発局長の任から解く。君の行った産業廃棄物の不法投棄、および未成年の拉致監禁、殺人教唆……すべては君個人の独断専行による犯罪行為として、警察当局へ通報済みだ。……株価への影響を最小限に抑えるため、君には『精神錯乱による暴走』というシナリオを用意しておいた。……感謝したまえ』


「……そ、そんな……!トカゲの尻尾切りですか!!私は……私はあなた方の命令で……!!」


『……証拠はあるのかね?……君の端末、およびクラウド上のデータは、先ほどすべて『破損』したようだが』


 九条が呆然とスマートフォンを見ると、画面はブラックアウトし、完全に初期化されていた。

 彼は理解したのだ。自分が守ろうとした組織こそが、自分を最も効率的に処理する処刑人であったことを。

 九条は、糸が切れたように泥の中に突っ伏し、嗚咽さえも漏らさずに沈黙した。社会的な死が、彼を押し潰したのだ。


 だが、老人の声は止まらない。

 今度は、明確に瑠璃へと向けられた。


『……さて。見事だったぞ、瑠璃。……我が孫ながら、あの九条をここまで追い詰め、物理的な証拠まで突きつけるとはな。……『鑑定眼』は合格だ』


「……フン。褒め言葉として受け取っておくぞ、お祖父様(タヌキジジイ)。これでお主らの目論見通り、不都合な社員一匹を生贄にして、会社は安泰というわけじゃな」


 瑠璃は、上空のドローンに向かって、不敵な笑みを返した。その口調に、媚びへつらいなど微塵もない。対等か、それ以上の傲慢さだ。


 だが、弦十郎の声は、さらに温度を下げた。


『……安泰? まだ掃除は終わっていないよ。そこにいる『不純物』が残っているではないか』


 ドローンのカメラが、瑠璃の背後で震えるアリアを捉えた。


『その少女……アリアと言ったか。九条が独断で作った、身寄りのない孤児の整形改造人間。優奈君の代用品。実に不愉快で、醜悪な『証拠品』だ。……彼女が生きていれば、メディアは面白おかしく書き立てるだろう。『如月コンツェルンが人身売買に関与』とな。……それは困る』


 カシャッ、カシャッ。


 湖畔に待機していた黒いスーツの男たち――九条の部下ではなく、本社直属の「掃除屋(クリーナー)」たちが、静かに銃を構え直した。


 その銃口は、九条ではなく、アリアに向けられている。


「……ひっ……!」


 アリアが悲鳴を上げ、僕の背中にしがみつく。


『……瑠璃。その少女をこちらへ渡しなさい。彼女には、適切な『保護施設』を用意する。二度と表の世界には出られないが、衣食住は保証しよう。……それが、如月家としての慈悲だ』


「……断る」


 瑠璃の声が、湖底に響いた。


 彼女は、泥だらけのドレスを翻し、アリアと銃口の間に立ちはだかった。


『……何? ……聞こえなかったかな。それは命令だ』


「聞こえておるわ。わしは言っておるのじゃ。この『アリア』という少女の所有権は、既にわしにあるとな」


 瑠璃は、懐から一枚の汚れたメモリーカードを取り出した。それは、サクタロウが必死に守り抜き、慎之介のサーバーへ転送したデータの『バックアップ』だ。


「お祖父様。先ほど、九条の端末を消去したようじゃが……ここにあるデータは消せぬぞ。ここには、九条の不正の記録だけでなく、お主らが七年前に署名した『地盤改良工事の承認印』……つまり、産業廃棄物の埋め立てを許可した決裁書のスキャンデータも入っておる」


『……ほう。私を脅迫するつもりか?』


「取引じゃよ、会長。このデータを、世界中のメディアと証券取引委員会にバラ撒かれたくなければ、アリアの『身柄』と『自由』を保証せよ。彼女は、九条の被害者としてではなく、わしの『専属使用人』として引き取る」


 張り詰めた沈黙が、数秒間続いた。


 やがて、スピーカーから、乾いた笑い声が聞こえてきた。


『……クク、ハハハハ。……いいだろう。そこまで言うなら、その『不良在庫』は君にくれてやる。……ただし、タダではないぞ、瑠璃』


「……条件はなんじゃ」


『その少女の『買い取り価格』だ。彼女にかけた整形費用、教育費、そして今回の騒動による損害賠償……締めて『三億円』。これを君が個人的に負担するというなら、彼女の所有権を認めよう。無論、君の小遣いでは払えまい?』


 三億円。


 高校生の、いくら令嬢とはいえ、個人で払える額ではない。

 会長は、瑠璃に『諦めろ』と言っているのだ。

 だが、瑠璃はニヤリと笑った。

 そして、僕の襟首を掴んで引き寄せた。


「構わぬよ。支払いは、こやつの給料から天引きしておいてくれ」


「……は!?」


 僕は素っ頓狂な声を上げた。

 瑠璃は真顔で続ける。


「サクタロウ。お主の月給、手取り二十万円として……年間二百四十万。三億円を完済するには……約百二十五年か。利子を含めれば、まあ三百年といったところじゃな」


「さ、三百年!?僕、妖怪か何かになるんですか!?」


「光栄に思え。お主の労働力が、一人の少女の命と、この街の平和を買い取るのじゃ。これほど『高価な買い物』ができる補助員など、世界中探してもお主くらいじゃよ」


 瑠璃は、悪戯っぽく、しかしどこか慈愛に満ちた目で僕を見た。

 会長の笑い声が再び響く。


『面白い。三百年ローンか。君のその『道具(サクタロウ)』が、それほど長く使えるとは思えんが……まあいい。契約成立だ。……その少女は、今日から君の『借金の(かた)』だ。……好きにするがいい』


 その言葉を合図に、湖畔を取り囲んでいた掃除屋たちが、一斉に銃を下ろした。九条一馬だけを残し、黒い影たちは霧のように撤退を開始する。

 アリアが、信じられないという顔で、僕と瑠璃を交互に見ている。


「……私……生きて、いいんですか……?こんな、偽物の私が……」


「くどいぞ、アリア。お主はもう、九条の所有物ではない。今日から、このサクタロウの『三億円の借金』じゃ。その価値分、しっかりと生きて、働いてもらうからの」


 瑠璃はそう言って、アリアの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。


「……さあ、帰るぞ。泥だらけのドレスなど、一刻も早く脱ぎ捨てたい。サクタロウ、九条を担げ。警察に突き出すまでが、お主の仕事じゃ」


「……へいへい。三百年ローンの債務者として、馬車馬のように働かせていただきますよ」


 僕は、泥の中で気を失っている九条一馬を引きずり起こした。

 かつての支配者は、驚くほど軽かった。


 湖底から見上げる空は、いつの間にか完全に明け、突き抜けるような青空が広がっていた。


 審判は下された。


 魔法も奇跡もない、金と契約と、少しばかりの『不純な人情』による解決。


 だが、それが僕たちにとっての、最高のハッピーエンドだった。



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