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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『審判の旋律』 ~Section 15:兄の出世と、ブレザーの転校生~

 事件から三日が過ぎた。


 月見坂市は、まるで何事もなかったかのように平穏な朝を迎えている。


 不知火湖の水位は元に戻され、九条一馬の失脚は『健康上の理由による辞任』として小さく報道されただけだった。新市街のネオンは相変わらず眩しく、市民たちは今日も管理された幸福の中で生きている。


 変わったことといえば、僕の高校生活に『アリア救出費用:三億円(300年ローン)』という、冗談のような負債がのしかかったことと――旧校舎の図書室に、新しい『クラスメイト』が増えたことくらいだ。


「あの、サクタロウさん。紅茶の濃さは、これでよろしいでしょうか?」


 図書室のカウンターで、おっかなびっくりティーポットを傾けているのは、真新しいこの高校のブレザーに身を包んだアリアだった。

 彼女は今、瑠璃の強引なコネクションにより、特別編入生として学校に通いながら、放課後はこの図書室の雑用係として居候している。

 九条の手によって整形されたその顔は、やはり優奈に瓜二つだが、その表情はまだ硬く、怯えた小動物のようだ。


「アリア。様付けはよせと何度言えばわかる。こやつはわしの『所有物』であり、お主はその所有物が背負った『借金の(かた)』なんじゃぞ?ヒエラルキーで言えば、借金の原因であるお主の方が上かもしれん」


 奥の安楽椅子で、瑠璃が分厚いハードカバーを読みながら憎まれ口を叩く。


「でも、サクタロウさんは、私を泥の中から拾ってくださいましたから」


「拾ったのではない。三百年ローンで買ったのじゃ」


 僕はため息をつきながら、アリアが淹れた紅茶を受け取った。そもそも、僕は瑠璃から給料など一円ももらっていない。ただの『巻き込まれ係』だ。

 それなのに、あの湖底で瑠璃は勝手にこう宣言したのだ。


 『お主のこれからの労働を、月額二十万と査定してやる。それを借金返済に充てよ』と。


 つまり、給料をもらうどころか、僕はこれから死ぬまでタダ働きで、架空の借金を返し続ける『永久就職(奴隷契約)」が決まったわけだ。


「まったく、高くついた買い物ですよ。僕の青春、全部担保に入っちゃいました」


 そんな穏やかで、少し歪んだ日常の会話が交わされていた、その時だった。


 図書室の扉が、ノックもなしに無遠慮に開かれた。


 入ってきたのは、高級なオーデコロンの香りと、隠しきれない『勝ち誇った空気』を纏った男――皐月龍也(さつき りゅうや)だった。


「やあ、如月さん。そして、その連れ。ここは相変わらず、カビと古本の臭いが充満しているね」


 龍也は、以前会った時よりもさらに仕立ての良いスーツを着こなし、その胸元には、かつて九条一馬がつけていた『新市街開発局』のバッジが輝いていた。


 九条の失脚により、彼がその後釜に座ったことは明白だった。


「龍也か。よくもまあ抜け抜けと顔を出せたものじゃな。妹の死の真相を隠蔽し、九条に尻尾を振っていた男が、今や新市街のトップとは。世も末じゃ」


 瑠璃は本から目を離さず、冷たく言い放った。

 だが、龍也は悪びれる様子もなく、肩をすくめた。


「人聞きが悪いな。私はただ、チャンスを待っていただけだよ。君のおかげで、目の上のたんこぶだった九条が消え、S-Musicの株価も安定した。礼を言いに来たんだ」


 龍也は、図書室の中を見渡し、カウンターの中にいるブレザー姿のアリアに視線を止めた。

 その瞬間、彼に浮かんだ笑みは、兄としての慈愛などではなく、有望な商品を値踏みするバイヤーのそれだった。


「それに、今日は『商談』があってね。そこにいるアリアちゃんのことだ」


 アリアが、ビクリと肩を震わせ、盆を落としそうになる。


 龍也は、ゆっくりと彼女に近づいた。


「素晴らしい。近くで見れば見るほど、優奈によく似ている。九条の趣味の悪さには反吐が出るが、その『仕上げ』の技術だけは認めざるを得ないな」


「気安く近づくな、龍也。その子はもう、お主らの所有物ではない」


 瑠璃が本を閉じ、立ち上がった。

 龍也は、両手を挙げて制止のポーズを取ったが、その目は笑っていなかった。


「如月さん。君が彼女を買い取ったことは聞いている。だが、君に彼女を飼い殺しにする権利はないはずだ。彼女には『才能』がある。優奈と同じ顔、そして改造されたとはいえ、聴衆を魅了する『声』がある」


 龍也は、ポケットから一枚の企画書を取り出し、テーブルに置いた。

 タイトルには『プロジェクト・リザレクション ~二代・皐月優奈デビュー計画~』と書かれている。


「S-Musicは、彼女を『二代目・皐月優奈』としてデビューさせたい。悲劇の死を遂げた天才歌姫が、奇跡の帰還を果たした……というストーリーなら、全米が泣く。巨万の富が動くぞ。彼女自身にとっても、こんな古臭い図書室で一生を終えるより、スポットライトを浴びる人生の方が幸せなはずだ」


 僕の中で、何かが切れる音がした。

 こいつは、何もわかっていない。

 優奈さんが何のために戦ったのか。アリアがどれほどの恐怖の中で生きてきたのか。人間を、部品か何かだと思っているのか。


「ふざけないでください!!アリアは、優奈さんの代用品じゃない!!彼女は……!!」


 僕が叫ぼうとした時、瑠璃が静かに手を挙げて僕を止めた。

 彼女は、龍也の前に進み出ると、その企画書を指先でつまみ上げ、パラパラと中身を改めた。


「ふむ。『謎の失踪から七年、記憶喪失を経て帰還』……『最新のバイオ技術による声帯の復元』か。よくもまあ、これほど陳腐で、虫唾が走る脚本が書けたものじゃな」


「ビジネスだよ、如月さん。それに、彼女だって望んでいるはずだ。ねえ、アリアちゃん?君だって、歌いたいだろう? 君は歌うために作られたんだから」


 龍也が、甘い声でアリアに語りかける。


 アリアは蒼白になり、唇を震わせていた。彼女の中に埋め込まれた『優奈を演じろ』という催眠暗示が、龍也の言葉に反応しているのだ。


「わ、私……私は……う、歌……」


「龍也。お主、一つ勘違いをしておるぞ」


 瑠璃が、企画書を真っ二つに破り捨てた。

 ビリリ、という乾いた音が、図書室の空気を裂く。


「なっ……!何をするんだ!」


「お主は言ったな。『彼女は歌うために作られた』と。それは九条の論理じゃ。だが、わしの鑑定は違う」


 瑠璃は、破り捨てた紙片を龍也の顔に投げつけた。


「アリアは、優奈が『生きるため』に守った存在じゃ。歌うためではない。ただ、そこで呼吸をし、ブレザーを着て学校に通い、下手くそな笑顔を浮かべる。その『無意味な日常』こそが、優奈が命懸けで勝ち取ったアリアの機能なのじゃよ」


「綺麗事だ!才能を浪費させる権利が君にあるのか!」


「権利?あるに決まっておろう。なんと言っても、そこのサクタロウが、三百年分の『未来の労働力』を売り渡してまで、彼女の『自由』を買ったのじゃからな」


 瑠璃は、僕の背中をバンと叩いた。


「サクタロウ。最大の出資者として言ってやれ。お主が人生を賭けて手に入れた『高価な友人』に、安っぽい値札を貼るなとな」


 僕は、震えるアリアの前に立った。

 まだ癒えきっていない脇腹の傷が痛むが、そんなことはどうでもよかった。


「帰ってください、龍也さん。アリアは、商品じゃありません。彼女は、僕と同じ、ただの高校生です。二度と、その汚い手で触れないでください」


 龍也は、僕と瑠璃、そして僕の背中で、初めて龍也を睨み返したアリアの目を見て、舌打ちをした。

 彼は、床に散らばった企画書の残骸を踏みつけ、踵を返した。


「フン。後悔するぞ。新市街のトップを敵に回して、この古臭い校舎がいつまで持つか……」


「脅しか?面白い。九条一馬ですら、この図書室を潰せなかったのじゃ。お主ごとき二番煎じに、何ができると言うのじゃ?」


 瑠璃の冷徹な一瞥に、龍也は言葉を飲み込み、逃げるように図書室を出て行った。


 ドアが閉まり、静寂が戻る。

 アリアが、へなへなと座り込んだ。


「サクタロウさん……瑠璃さん……。ごめんなさい……私、やっぱり……」


「謝るなと言うておろう」


 瑠璃は、アリアの前にしゃがみ込み、破れた企画書を拾い集めながら言った。


「アリア。歌いたければ、歌えばいい。だが、それは誰かのためでも、金のためでもない。お主が、お主自身の心で歌いたいと思った時にな。この図書室の防音壁なら、どれだけ下手くそな歌でも、誰も文句は言わぬよ」


 アリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、優奈の身代わりとして流す涙ではなく、アリアという一人の女子高生が、初めて自分の意志で流した涙だった。


 窓の外では、新市街の大型ビジョンに、新局長・皐月龍也の就任会見が映し出されている。


 街は相変わらず、嘘と欺瞞で回っている。


 だが、この図書室だけは、三百年分の『奴隷契約』と共に、確かな『真実』が刻まれていた。



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