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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『審判の旋律』 ~Section 13:空砲の銃弾と、湖底の不法投棄~

 カチリ。


 瑠璃の細い指が、銀色の物理キーを回し切ったその瞬間。地下ポンプ室の空気が、ごぅん……という重低音と共に震えた。


 それは電子音ではない。数千トンの水圧を制御する巨大な油圧シリンダーが、七年ぶりに強制稼働する際に上げる、錆びついた金属の悲鳴だった。


「動いた。……九条、これがお主が恐れていた音じゃ」


 瑠璃が静かに告げると同時に、足元の鉄格子の下を流れる水音が、ドォォォォ……という激流の咆哮へと変わった。

 排水バルブが全開になり、不知火湖の膨大な水量が、地下の放水路へと吸い込まれ始めたのだ。


「……や、やめろぉぉぉッ!!」


 九条一馬の理性が、その轟音と共に弾け飛んだ。

 彼の手にあるハンドガンが火を噴く。


 バァン!!


 乾いた破裂音が、密閉されたコンクリートの部屋に反響し、僕の鼓膜を強打した。

 硝煙の匂いが、湿ったカビの臭気と混ざり合う。

 僕は反射的にアリアを抱きかかえて伏せたが、すぐに違和感に気づいた。


 瑠璃が、倒れていない。


 彼女は、排水制御盤の前に仁王立ちしたまま、微動だにせず、ただ冷ややかに九条を見下ろしていた。

 弾丸は、瑠璃の身体を貫いてはいなかった。

 彼女の頬を僅かに掠め、背後のコンクリート壁に穴を開けていたのだ。距離にしてわずか五メートル。訓練を受けた九条が外すはずのない距離だ。


「サクタロウ、顔を上げよ。……この男は、わしを撃てぬ」


 瑠璃が、頬を伝う一筋の血を、汚れた手袋の甲で無造作に拭った。


「……な、なぜだ……!なぜ当たらない!!手が……指が勝手に……!!」


 九条は、自身の右手を押さえて震えている。

 瑠璃は、哀れむような目で彼を一瞥した。


「……お主は、根っからの『如月コンツェルンの社員』だからじゃよ、九条。……お主の深層心理が理解しておるのじゃ。この制御盤は、この街のインフラを司る重要資産であり、数億円の価値があるとな。……そして、その前に立つ『如月瑠璃』という存在もまた、お主のDNAに刷り込まれた絶対的な『上司の娘』じゃ」


 瑠璃は、制御盤のキーから手を離し、ゆっくりと九条に歩み寄った。


「……お主は、会社の利益を守るために不正を働いた。だからこそ、会社の資産を破壊することに、本能的なブレーキがかかる。お主のその震えは、人間としての良心ではない。社畜としての『条件反射』に過ぎぬ。……滑稽なことじゃな」


「……黙れ!!私は……私はこの街の神だぞ!!」


 九条が再び銃を構えようとするが、その手は痙攣し、銃口は定まらない。その間に、ポンプ室の強化ガラス窓の外で、劇的な変化が起きていた。

 水位が、見る見るうちに下がっていく。

 今まで暗緑色の水に覆われていた『湖の底』が、朝日に照らされて露わになり始めたのだ。


「……如月さん!見てください、外を!!」


 僕の声に、全員の視線が窓の外へと吸い寄せられた。


 そこに現れたのは、神秘的な古代遺跡でも、SF的なエネルギー装置でもなかった。

 泥の中から姿を現したのは、無数の『錆びついたドラム缶』と、建物の残骸のような『コンクリートの瓦礫』の山。


 ドラム缶の側面には、黄色と黒の警告色でドクロマークが描かれ、一部は腐食して中からドス黒いヘドロが漏れ出している。


「……これが、『根源の石』の正体か。美しい『音楽の街』の土台は、猛毒の産業廃棄物と、手抜き工事の残骸で出来ておったというわけじゃ」


 瑠璃の声が、冷たく響く。

 それは、どんな魔法よりも残酷な、現実という名の毒だった。


「……あ、あぁ……」


 九条が、その場に膝から崩れ落ちた。


 七年間、必死に水を満たし、時計塔を建て、美しい公園を整備して隠し通してきた『汚点』が、今、白日の下に晒されたのだ。


 僕のポケットに入っている通信機を通じて、この映像は今、如月本社の会長室へとリアルタイムで送信されているはずだ。


「だが、これだけでは終わらぬぞ、九条。これはあくまで『会社の罪』じゃ。……ここからは、お主個人の『殺人の罪』を暴かねばならぬ」


 瑠璃は、窓ガラスに張り付き、泥にまみれた湖底の瓦礫の山を、鷹のような鋭い視線で走査し始めた。


 彼女は何を探しているのか。


 優奈の遺体は、七年前に発見されている。ここに残っているとすれば、それは……。


「……見つけた」


 瑠璃が、低く、確信に満ちた声で呟いた。


 彼女が指差したのは、積み上げられたドラム缶の隙間、コンクリートで固められた排水溝の(へり)だった。そこに、泥に埋もれながらも、金属探知機のように鈍く光る『小さな点』があった。


「サクタロウ。あの光るものが見えるか?あの排水溝のコンクリート、色が周囲と違っておる。あそこだけ、後から補修された『新しいコンクリート』じゃ」


「……ええ、見えます。何か……棒のようなものが突き刺さってる?」


「九条。お主、七年前のあの日、優奈を突き落とした後……慌ててこの排水溝の亀裂を塞いだじゃろう?そこから漏れ出す廃液が、事件の発覚に繋がることを恐れてな」


 九条の顔色が、土気色を超えて透明に近い蒼白へと変わる。


「……その時、お主は気づかなかった。……突き落とされた優奈が、最期の力を振り絞って、お主のポケットから『あるもの』を奪い取り、固まる前のコンクリートの中に突き立てたことを」


 瑠璃は、ポンプ室の非常口を開け放った。

 湿った風と共に、腐敗臭が流れ込んでくる。


 彼女は泥濘と化した湖底へと降り立ち、その『光る点』へと一直線に歩いた。

 僕とアリア、そして九条も、亡霊のようにふらふらと彼女の後を追う。

泥をかき分け、瑠璃がその物体を引き抜いた。


 ズズズ……。


 コンクリートの隙間から現れたのは、七年間の泥水を吸って変色してはいるが、紛れもない『高級万年筆』だった。


 軸には、金細工でこう刻まれている。


 ――『K. Kujo』。


「……九条一馬。お主が七年前に紛失届を出した、社長賞の記念万年筆じゃな。お主はずっと、湖に落としたと思っておったじゃろう」


 瑠璃は、泥だらけの万年筆を、証拠品袋に入れることもなく、九条の目の前に突きつけた。


「……だが、これは『落とした』のではない。……優奈が、お主に突き落とされる直前、お主の胸ポケットから抜き取り、このコンクリートの亀裂に『くさび』として打ち込んだのじゃ。『犯人はこの男だ』とな」


 万年筆のペン先は、コンクリートに食い込んで折れ曲がっていた。

 それは、九歳の少女が、死の恐怖の中で示した、精一杯の抵抗と告発の痕跡だった。


「……あ、あぁ……。優奈……ちゃん……」


 アリアが、その万年筆を見て、声を上げて泣き崩れた。


 彼女には記憶がないはずだ。だが、その光景が、彼女の遺伝子に刻まれた優奈の無念と共鳴したのかもしれない。


「万年筆の周りのコンクリートを分析すれば、優奈の指紋や、あるいは爪の破片が出るかもしれぬな。言い逃れはできんぞ、九条。……お主は、ただの『産廃隠し』のために、未来ある才能をコンクリート詰めにしたのじゃ」


 九条の手から、ハンドガンが滑り落ちた。

 水たまりに落ちた銃が、バシャリと虚しい音を立てる。彼はその場に膝をつき、泥水の中に両手をついて、獣のような嗚咽を漏らし始めた。


「……違う……私は……私はただ、如月家のために……この街の未来のために……!!」


「まだ言うか。お主が守りたかったのは、自分の『椅子』だけじゃろうが」


 瑠璃は、万年筆を懐にしまうと、通信機に向かって静かに告げた。


「……聞こえておるな、父よ。……そして、爺。……これが、お主らが重用した『忠臣』の正体であり、この街の地下に埋められた『資産』の全貌じゃ。さあ、鑑定は終わった。……損切り(ロスカット)の時間じゃぞ」


 その時。


 九条の胸元のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。

 着信画面には、冷酷な文字が表示されていた。


 『会長室(解任通知)』


 審判の旋律は、優雅な音楽などではなかった。

 それは、泥水が流れる音と、一人の男の社会的な死を告げる、無機質な着信音だった。



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