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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『審判の旋律』 ~Section 12:泥底のティーカップと、整形のカルテ~

 カツ、カツ、カツ……。


 湿り気を帯びた地下ポンプ室の鉄階段を、九条一馬がゆっくりと降りてくる。


 その足音は『支配者の凱旋』を告げるものではない。深夜に残業を終え、誰もいないオフィスを去るサラリーマンのような、酷く乾いた、疲労の色を帯びたリズムだった。


 彼は右手にハンドガンを握っているが、その銃口は力なく床を向いている。


「……意外そうな顔をしているね、サクタロウ君。……私が軍隊を引き連れて、派手な銃撃戦でも演じると期待していたのかな?」


 九条は、階段を降りきった場所にある、あの不釣り合いな革張りの椅子に視線を落とした。そして、まるで長年の友人に会うかのように、その背もたれにそっと手を置いた。


「……ここはね、私の『懺悔室』なんだよ。……七年前、この街の基礎工事に致命的な欠陥が見つかった夜から、私は毎晩ここに座り、水位計の針と睨めっこをしていた。……誰にも言えない秘密を、この泥水だけが聞いてくれた」


「……随分と感傷的なお話じゃな。……だが、その椅子に座っておったのは、お主だけではないじゃろう?」


 瑠璃が、冷ややかな声で遮った。


 彼女は懐中電灯の光を、椅子の背後にあるコンクリートの壁へと向けた。


 そこには、大人の目の高さには決して入らない、床からわずか一メートルほどの低い位置に、無数の細かい『傷跡』が刻まれていた。


 それは道具によるものではない。人間の爪で、絶望的な力で何度も引っ掻いたような、赤黒い錆が滲むような痕跡。


「九条。お主、七年前のあの日、ここに優奈を連れ込んだな? ……いや、正確には、お主がここで『何か』を隠蔽している現場を、優奈に見られた。……そしてお主は、口封じのために彼女をここに監禁した」


 九条の眉がピクリと動いた。


「……彼女は、賢すぎたんだ。……皐月家の令嬢として、父親の会社が請け負った工事の図面を見て、違和感に気づいてしまった。『パパの図面と、実際の水位が合わない』とね。……だから私は、少しだけ彼女に『社会の仕組み』を説明しようとしただけだ」


「説明?笑わせるな。……お主がしたのは『隠蔽』じゃ。……見よ、このサイドテーブルを」


 瑠璃は、テーブルの上に放置されたティーカップを指差した。


 高級磁器ブランド『ナルミ』のカップ。その縁には、七年前の口紅の跡などついていない。代わりに、カップの底には、茶渋と共に『白い粉末』がこびりついていた。


「……優奈とお茶会でもしたつもりか? ……違うな。これは睡眠導入剤じゃ。お主、幼い少女を薬で眠らせ、事故に見せかけて湖に沈めようとした。……だが、彼女は抵抗した。その爪痕が、何よりの証拠じゃ」


 僕は、壁の傷跡を凝視し、吐き気を催した。

 オカルトめいた儀式でも、壮大な計画でもない。

 ただの、大人の不始末を隠すための、卑劣な暴力。それが優奈の死の真相だったのか。


「……仕方なかったんだ!!」


 九条が突然、声を荒らげた。その表情から、知的な仮面が剥がれ落ちる。


「……あの時、工期は遅れに遅れていた!埋め立て用の土砂が足りず、地盤はスカスカだった!……そこに、産廃業者が『安くて硬い素材がある』と持ちかけてきたんだ!コンクリートの瓦礫と、化学汚泥を混ぜた混合材だ!……私はそれを使うしかなかった 如月会長の『期日を守れ』という命令は絶対だったんだ!!」


「……つまり、『根源の石』などという大層な名前の正体は……湖の底に不法投棄された、巨大な『産業廃棄物の山』というわけか」


 瑠璃の指摘に、九条は唇を噛み締め、沈黙した。それが肯定だった。


 人口の湖で見た『沈まない時計』。あれは、汚泥から染み出した化学物質が湖水の粘度を異常に高め、表面張力を狂わせていただけだったのだ。


 魔法も、呪いもない。あるのは、手抜き工事と環境汚染という、あまりに現実的な犯罪だけ。


「……幻滅したか? 如月瑠璃。……君が追い求めていた『ありえないもの』の正体が、こんな薄汚いゴミの山だったとはな」


「……いいや。むしろ清々しいわ。……お主のような小物が、世界を支配する黒幕を気取っていたことの方が、よほど『ありえない』喜劇じゃったからな」


 瑠璃は鼻で笑うと、次にアリアの方を振り返った。

 アリアは、九条の姿を見て怯え、僕の背中で小さく震えている。


「……そして、もう一つの『嘘』を暴こうか。……アリア、前に出よ」


「……ひっ……」


「……九条。お主、この子を『マインド・コピー計画の実験体』だとか、『遺伝子操作で作られた模造品』だとか言っておったな。それもまた、お主の虚栄心が生んだフェイクニュースじゃ」


 瑠璃は、アリアの腕を掴み、その袖をまくり上げた。


 そこには、バーコードのような刺青などない。あるのは、何度もメスを入れられ、皮膚を移植されたような、痛々しい『手術痕』だった。


「……クローン技術など、この街の医療レベルでは到底不可能じゃ。お主がやったのは、もっと原始的で、残酷なこと。……優奈に背格好の似た身寄りのない孤児をさらってきて、整形手術で顔を変え、声帯を薬物で改造し、催眠療法で『自分は皐月優奈だ』と思い込ませた……ただの『人間』の改造じゃろう」


 アリアが、息を呑んだ。


 彼女自身も、自分が試験管から生まれた怪物だと信じ込まされていたのだ。

 だが、事実はもっと残酷で、そしてある意味では救いのあるものだった。彼女は怪物ではない。被害者なのだ。


「……アリア。お主の声が通信網をジャックしたのも、超能力ではない。お主の声帯に埋め込まれた『人工震動板』が、この部屋の換気ダクトと共鳴しただけの物理現象じゃ。九条は、お主を『歌う鍵』として利用するために、喉までいじくり回したのじゃな」


「……そ、そんな……。私は……人間、なのですか……?」


 アリアが、自分の喉に手を当て、涙を流した。

 九条は、その光景を冷めた目で見下ろしている。


「……人間だよ。だが、戸籍もない、名前もない、ただの『素材』だ。……優奈が死んだ後、如月家を納得させるための代用品が必要だった。だから作った。それの何が悪い?彼女には『アリア』という役割を与え、衣食住を保証してやったんだぞ?」


「……黙れ、三流演出家。お主の脚本は、ここで打ち切りじゃ」


 瑠璃は、手の中にある銀の物理キーを、ポンプ室の中央にある、巨大な赤いハンドルのついた制御盤に差し込んだ。


 カチリ。


 その音は、地下室の冷たい空気を震わせた。

 これは『世界を滅ぼすスイッチ』ではない。


 この湖の水を抜き、底に眠る『産業廃棄物』と『優奈の痕跡』を白日の下に晒すための、ただの『排水バルブ』の起動キーだ。


「……九条。お主が守りたかったのは、街の秩序ではない。……ただの『保身』じゃ。このバルブを開けば、お主の七年間の嘘はすべて泥水と共に流れ出し、後には犯罪の証拠だけが残る」


「……やめろ!!」


 九条が、ついにハンドガンを構えた。

 銃口が瑠璃の心臓を捉える。


「それを回せば、如月コンツェルンもただでは済まない!莫大な賠償金、株価の暴落、そしてブランドの崩壊!……君は、自分の家を潰す気か!!」


「……家? ふん、知ったことか。わしが守りたいのは、如月という看板ではない。優奈との約束と、アリアという一人の人間の『尊厳』だけじゃ」


 瑠璃の手が、キーを握りしめる。

 九条の指が、引き金にかかる。


 SFも、魔法も、奇跡もない。


 あるのは、一人の少女の『意地』と、一人の男の『恐怖』がぶつかり合う、冷たく乾いた殺意の瞬間だけだった。


「……サクタロウ。証拠映像の準備はいいな?……これから流れるのは、この街で最も醜く、そして最も美しい『ドキュメンタリー』じゃ」


 僕が持つ通信機のランプが、赤く点滅している。

 地上では、会長と社長が、この映像を受け取る準備を終えているはずだ。


 審判の時は来た。


 瑠璃は、迷うことなく、その銀の鍵を右に回した。



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