第5話『審判の旋律』 ~Section 11:錆びついた聖域と、演じられた熱狂~
ズゥゥゥン……。
重厚な防音鉄扉が完全に閉ざされ、ロック機構が錆びついた悲鳴を上げて噛み合った瞬間。
外の世界の喧騒――上空を旋回するヘリの爆音、水面を切り裂く装甲車のエンジン音、そして僕たちの鼓動を極限まで急かしていたサイレンの音――が、嘘のように、そして暴力的なまでに遮断された。
後に残ったのは、鼓膜が痛くなるほどの耳鳴りと、湿ったコンクリート特有の重い匂い。そして、足元の格子の隙間から響く、ドゥドゥドゥ……という重く低い水流の振動だけだった。
「……ッ、かはッ……! げほっ、げほっ、おえぇ……!」
扉が閉まると同時に、先ほどまで先頭を切って走り、九条一馬に対して高らかにタンカを切っていた如月瑠璃が、まるで糸が切れたマリオネットのようにその場へ崩れ落ちた。
彼女は、泥と油で汚れた高級なゴシックドレスの裾も気にせず、冷たいコンクリートの床に座り込み、喉を押さえて激しく咳き込んだ。その姿は、英雄的な革命家などではなく、ただの疲れ切った一人の少女だった。
「き、如月さん!?大丈夫ですか!?怪我でも……!」
僕は慌てて駆け寄ろうとしたが、瑠璃はそれを、泥だらけの手袋をはめた片手で、煩わしそうに制した。
顔を上げた彼女の表情からは、先ほどまでの『悲劇のヒロイン』のような決死の覚悟や、瞳に宿っていた狂気的な熱量は完全に消え失せ、いつもの不機嫌で、気だるげで、そして絶対的に冷静な、本来の『如月瑠璃』が戻っていた。
「……あー、喉が痛い。喉が焼けるようじゃ。……一生分の声を張り上げたわ。あんな大声、生まれて初めて出したかもしれぬ。……サクタロウ、水はないか? 泥水でもいい、早く寄越せ」
「え……?あ、いや、水筒ならまだ少し残ってますけど……」
僕が腰から外して差し出したボトルをひったくり、彼女はキャップを回すのももどかしく口をつけると、下品にならないギリギリの速度で飲み干した。
ふぅ、と深く、長い息を吐き出すと、彼女はボトルを僕に放り投げ、呆れたような、軽蔑を含んだ目で僕とアリアを見上げた。
「……お主ら、何をキョトンとしておる。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、まさにそのことじゃな。……まさか、わしが本気で『愛と勇気の逃避行』に酔いしれておったとでも思ったか?」
「え、違うんですか? だって、『不純物こそが世界を変える』とか、『最高のフィナーレ』とか、すごく熱いことを……。僕、感動して走りながら泣きそうに……」
「……あのような三流の冒険小説じみた台詞、二度とわしの口から言わせるな。反吐が出る。……全ては、あのナルシストである九条一馬の精神構造に合わせた、計算ずくの『演出』じゃよ」
瑠璃は、手の中にある銀の物理キーを、まるでただの無価値な金属片のように指先で弄びながら、冷笑を浮かべた。
「九条一馬という男は、自分を『秩序を守る悲劇の英雄』だと思い込んでおる。あのような手合いは、敵対者が『必死に抵抗する悪役』としてドラマチックに振る舞えば振る舞うほど、周りが見えなくなり、感情的になって深追いしてくるものじゃ。……自らの手で悪を断罪するというカタルシスを得るためにな。 おかげで奴は、軍隊を待機させ、自分一人で『聖なる決着』をつけに来る。……部下に手柄を譲るような殊勝な男ではないからな」
「……じゃあ、あの逃走劇も、叫びも、全部……九条をここへ一人で誘い込むための演技だったってことですか?」
「当然じゃ。まともに軍隊とやり合って勝てるわけがなかろう。わしとお主の貧弱な装備で、装甲車に勝てるとでも本気で思ったか? ……はぁ、それにしても疲れた。走るのも叫ぶのも、わしの性分ではない。……これだから『肉体労働』は嫌いなのじゃ。今すぐメロンクリームソーダとプリンが欲しい」
瑠璃は、文句を垂れ流しながらよろりと立ち上がると、僕から懐中電灯を受け取り、無造作に周囲を照らした。
白い光線が、地下の闇を鋭利に切り裂く。
そこに浮かび上がった光景を見て、僕は再び言葉を失った。しかし今度は、未知への恐怖ではなく、あまりの『現実感』に対する戸惑いと落胆だった。
「……これが、地下要塞……?いや、違う。これは……」
僕が想像していたのは、SF映画に出てくるような、銀色の壁に囲まれたハイテクな指令室や、青白く光るサーバーが並ぶ『管理AIの中枢』だった。優奈の声が語った『根源の石』が眠る場所なら、それ相応の神秘的で荘厳な設備があるはずだと、勝手に期待していたのだ。
だが、目の前にあったのは、剥き出しの鉄骨と、赤錆びた太いパイプが血管のように張り巡らされた、ただの古びた『地下ポンプ室』だった。
壁には何年も掃除されていない黒カビがへばりつき、床には泥が乾燥してひび割れた跡が無数に走っている。天井からは、ポタ、ポタと水滴が落ち、水たまりを作っている。
ここは『聖域』などではない。ただの、汚れた、忘れ去られた作業場だ。
「……拍子抜けしたか?サクタロウ」
瑠璃が、錆びた手すりを指先で撫で、付着した黒い汚れを嫌そうにハンカチで拭った。
「お主、頭の中で勝手に『悪の秘密基地』を作り上げておったな?『根源の石』という言葉に踊らされ、未知のエネルギーや超科学的な兵器を想像しておったのじゃろう。……九条の演出に、そして優奈の『詩的な表現』に見事に嵌ったな」
「だ、だって……優奈さんの言葉も、九条のあの慌てぶりも……それにアリアの不思議な力も……」
「……それこそが、この場所を守るための『霧』じゃよ。……アリアの声が通信網をジャックした?……あれは単に、彼女の声帯が発する特定の周波数が、この旧式の地下施設の換気ダクトを共鳴管として増幅し、そのノイズが地上のアンテナに物理的に干渉しただけの現象じゃ。魔法ではない。 優奈が語った『根源の石』?……それはおそらく、もっと即物的で、つまらない『建設資材』か何かの隠語に過ぎぬ」
「……え?」
「考えても見よ。もしここが、世界を揺るがすようなオーバーテクノロジーの保管場所なら、なぜ九条は『軍隊』を突入させない?」
言われてみれば、明らかにおかしかった。
僕たちが扉を閉めてから数分が経過している。あの九条の戦力なら、この程度の旧式な鉄扉など、プラズマカッターで数秒あれば溶断できるはずだ。
だが、外からは扉を叩く音すら聞こえない。不気味なほどの静寂が続いている。
「……九条が部下を入れないのは、ここが『守るべき聖域』だからではない。……部下にすら見せられない、自身の『恥部』だからじゃ。ここは、新市街の輝かしい歴史の裏側にある、ただの『ゴミ捨て場』であり、隠蔽工作の現場。……だからこそ、彼は一人で来るしかない。誰にも見られず、ここでわしたちを始末し、証拠を闇に葬るためにな」
瑠璃の言葉が終わると同時に、螺旋階段のさらに奥、暗闇の底にある広場のような空間に、僕たちのライトが当たった。
そこには、ポンプ室の無機質さとは決定的に不釣り合いな、『ありえないもの』が鎮座していた。
それは、埃を分厚く被った、一脚の『高級な革張りの椅子』と、その横に置かれたマホガニー製の『サイドテーブル』。
そしてテーブルの上には、七年前からそこにあったかのように乾燥しきった、『飲みかけのティーカップ』と、『吸い殻が山盛りの灰皿』。
無機質な地下施設に、そこだけ切り取られたような『社長室の残骸』。
それは、SF的な恐怖よりも遥かに生々しい、人間の執着と、孤独な狂気を感じさせた。
「……見よ、サクタロウ。あれが『根源の石』を守る番人の正体じゃ。……魔法使いの玉座ではない。……不安に駆られた小男が、隠蔽工作が露見しないか怯えながら、夜通し水位計を睨み続けていた……ただの『監視席』じゃよ」
瑠璃は、その椅子に歩み寄り、灰皿に残された吸い殻をピンセットで摘み上げた。
その銘柄は、現在九条が吸っている電子タバコではなく、七年前に廃盤になった、ニコチン含有量の多い強い紙巻きタバコだった。フィルターには、歯で噛み潰した跡が無数に残っている。当時の九条の、極限のストレスが伺える。
「……人口の湖で見た『不沈時計』。あれもまた、お主らは『時を止める呪い』だと思ったじゃろうが……あれは単に、この湖の水質が『特殊な産業廃棄物』で汚染され、粘度が高まっていたことを隠すための、九条なりのフェイクニュースに過ぎんかったのじゃ。表面張力の異常など、ただの化学反応じゃよ」
僕の中で、あのとき感じていた『世界の命運をかけた戦い』という壮大なスケールが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
代わりに立ち上がってきたのは、もっと湿っぽく、もっとドロドロとした、企業の論理と大人の事情。そして、それに振り回された優奈とアリアという少女たちの悲劇。
「……来客じゃ。……アリア、サクタロウの後ろに隠れておれ」
瑠璃が呟くと同時に、頭上の鉄扉が、静かに、本当に静かに開く音がした。
軍靴の足音ではない。
高級な革靴が、湿った鉄階段を慎重に踏む、一人の男の足音。
九条一馬が、部下を一人も連れず、ハンドガンを一丁だけ持って降りてくる。
その顔には、もはや音楽堂で見せた焦りも、余裕もない。
あるのは、自分の汚れた洗濯物を見られたくないと願う、ただの疲れた会社員の顔だった。
「……ようこそ、如月瑠璃。……そして、私の『失敗作』たちよ」
九条の声が、ポンプ室の冷たい壁に虚ろに反響する。
ここは戦場ではない。
ここは、七年前に葬られたはずの『不良債権』を巡る、最後の査定会場だったのだ。




