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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『忘却の残響』 ~Section 4:人工湖の不沈時計と、刻まれた終焉~

 新市街の夜は、旧市街とは正反対の『死角なき光』に支配されている。

 管理AIがミリ単位で制御する人工湖『セレニティ・ミラー』は、その名の通り波一つ立たない鏡のような水面を湛え、周囲にそびえ立つ超高層ビル群のネオンを、暴力的なまでに鮮やかな色彩へと変質させて反射していた。

 ここには、旧市街のような泥の匂いも、不条理な澱みも存在しないはずだった。水は濾過され、プランクトン一つさえも計算された数しか存在しない。だが、その完璧な設計図の中央に、あってはならない『不純物』が、静かに、しかし断固として居座っていた。


「……あれか。サクタロウ、目を逸らすな。管理AIが『エラー』として無視し続け、市民の網膜からも削除された、あの『時間の残骸』を見据えるのじゃ」


 瑠璃は、人工湖のほとりに張り巡らされた『侵入検知レーザーフェンス』を、如月家特製のバイパスキーで無造作に、かつ優雅に解除しながら呟いた。

 彼女の細い指先は、あの図書室で見せた激しい動揺を、今は冷徹なまでの『観測者としての義務感』の下に押し殺している。だが、その指先が微かに蒼白なのは、恐怖からか、それとも寒気からか。


 湖面の中心。

 月光を反射して青白く輝く水面に、一つの高級腕時計が、まるでコルクのように軽やかに浮かんでいた。

 本来ならば重厚なプラチナとサファイアガラスで作られ、水に投じれば一瞬で沈むはずのその物体は、物理法則をあざ笑うかのように、水面に『座って』いるかのように動かない。


「……如月さん、あれ、本当に沈んでない。……いや、浮いてるっていうより、水面に『拒絶』されてるみたいだ。時計の下に、見えない台座でもあるみたいに……」


「ふむ。……お主にしては、詩的な、しかし本質を突いた観察じゃな。……見てみよ。時計の周囲の水面だけが、微かな風の波紋さえも拒んでおる。……これは表面張力などという生易しい現象ではない。……この時計の周囲だけ、水の状態変化(フェーズ)が固定され、液体でも固体でもない『特異点』として凝固しておるのじゃ」


 瑠璃は、僕に命じてボートを漕がせた。

 新市街の人工的な静寂に満ちた湖面を、オールが水を切る音だけが『ノイズ』として響く。

 手が届く距離まで近づいた時、僕はその時計の文字盤を覗き込み、心臓が跳ねるのを感じた。


「……如月さん。針が……動いてない。……いや、電池切れじゃない。……14時48分。……秒針が、その目盛りの上で、苦しげに小刻みに震え続けてます。……まるで、その一秒の壁をどうしても越えられないみたいに」


 14時48分。

 それは、七年前の夏。皐月優奈が、不知火湖のほとりで冷たい骸となって発見された、公式の検視報告書上の『推定死亡時刻』と、一秒の狂いもなく一致していた。


「……14時48分。……わしが、別荘の図書室で一冊の本を読み終え、優奈を探しに外へ出た、その瞬間じゃ。……わしの世界から、彼女の笑い声が消失した、決定的な境界線なのじゃよ」


 瑠璃の声から、一切の感情が消えた。それは彼女が極度の集中、あるいは極度の『拒絶』にある時の兆候だ。

 彼女は身を乗り出し、白い手袋を脱ぎ捨てると、素手でその時計を掬い上げた。

 水面に触れた瞬間、パキパキという、薄氷が割れるような、あるいはガラスが砕けるような乾いた硬質な音が周囲に響き渡った。時計を覆っていたのは、不自然なまでに硬質化された『水の膜』だった。


「……この時計。……お主も覚えておるか、サクタロウ。……慎之介とやらが暴いた、あの九条一馬の『気象管理局』の予算。……彼らが極秘裏に開発していたのは、特定のエリアの気象や分子運動を局所的に停止させる『定着液(フィキサチーフ)』の試作データじゃった。……これは、その技術を転用した、時を止めるための物理的な呪いじゃ」


定着液(フィキサチーフ)……。時間を止めるための薬品ってことですか?そんなの、SFの話じゃ……」


「より正確には、その空間の状態を『記録』し、あらゆる変化を拒むための物理的な鎖じゃよ。……この時計をここに浮かべた者は、七年前のあの忌々しい瞬間を、この新市街のど真ん中で、わしの目の前で再現しようとしておるのじゃ」


 瑠璃が時計の裏蓋を、アンティークの銀のピンセットで器用にこじ開けた。

 すると、精密なはずの時計の内部から、機械式のムーブメントではなく、一本の『人間の髪の毛』と、それに絡みついた『泥』が零れ落ちた。

 それは、新市街のクリーンな人工湖にあるはずのない、不知火湖特有の、あの粘り気のある黒い粘土質の土だった。


「……っ、如月さん!その泥……!」


「……ああ。……わかっている。……この泥の成分、わしの五感が覚えておる。……七年前、優奈の爪の間に詰まっていたもの、そして彼女が最期に踏みしめたであろう、絶望の土地の匂いじゃ。……これは、ただの嫌がらせではない。……優奈の『存在そのもの』の断片を、わしに突きつけておるのじゃ」


 その時、湖畔の各所に設置された高性能スピーカーから、新市街の管理AI特有の、抑揚を削ぎ落とした合成アナウンスが流れ始めた。


『……警告。……未認可の物理エラーを検知しました。……人工湖・セレニティにおける『14時48分』の空間同期(シンクロナイズ)を開始します。……市民の皆様は、直ちに視覚を保護し、当該エリアより離脱してください』


「同期……!? 一体何が起きるんですか、如月さん!」


「……逃げろ、サクタロウ!漕げ!全力で岸へ向かえ!!九条め、わしをこの偽りの時間の中に閉じ込めるつもりか!!」


 瑠璃の絶叫が響いた瞬間、湖面全体が、眩いほどの『白』に染まった。

 それは光ではない。

 湖水の分子構造が、あの腕時計に仕込まれていたナノマシンのプログラムと連動し、一瞬にして硬質化したのだ。

 人工湖全体が、巨大な『白い石膏の鏡』へと変貌していく。

 僕たちのボートは、その鏡の中に、標本のように閉じ込められようとしていた。


「……くそっ!!身体が……動かない!!水が……コンクリートみたいに固まって……!!」


 冷気ではない。空間そのものが『停止』を強要してくるのだ。

 僕の腕が、オールが、そして僕自身の心臓の鼓動さえもが、14時48分という時間の壁に押し潰され、静止させられようとした。視界の隅で、空を飛ぶ鳥さえもが、空中で静止した絵画のようになっていく。


 その時。

 瑠璃が、自らの指を強く、無造作に噛み切った。

 滴り落ちる鮮血。

 如月瑠璃の、生きている人間の『不純な熱』を持った血が、硬質化しつつある湖面に一滴、落ちた。


「……管理AIよ。……如月瑠璃の『生』という最大級のノイズを、お主の矮小な計算式で解いてみよ!!」


 パリン!!


 彼女の血が触れた場所から、空間の停止が蜘蛛の巣状に砕け散った。

 プログラム上の『完璧な静止』が、人間の生命という『予測不能な熱量』によって物理的に破壊されたのだ。

 僕たちはその隙を突き、砕けた『水の氷』を掻き分けながら、間一髪で岸へと飛び込んだ。


 背後では、人工湖が再び元の穏やかな水面へと戻り、何事もなかったかのようにネオンを反射し始めていた。管理AIのアナウンスも止まり、世界は再び『完璧な偽物』へと復元された。


 瑠璃は、血の滲む指を口に含み、拾い上げた腕時計を凝視した。

 時計の秒針は、今、カチッ……カチッ……と、ゆっくりと、しかし確かな刻みで動き出していた。

 14時48分を越えて――14時49分へ。死者の時間が、今、動き出した。


「……如月さん、大丈夫ですか!? その指……ひどい怪我です!」


「……構うな。……それより、見よ。……秒針が動き出したことで、時計の裏蓋に新たな『刻印』が浮き上がってきたぞ。……不純な熱こそが、真実を炙り出すのじゃ」


 動き出した時計の、サファイアガラスの内側。

 そこには、あの手紙と同じ、優奈の筆跡で、こう刻まれていた。


 ――『あの日、私は溺れてなどいなかった。……私は、あなた『最後の譜面(ギフト)』を渡そうとしていたの。……それは今も、私たちの秘密の場所で鳴り続けているわ』


 優奈の死は、決して不運な事故などではなかった。

 彼女は死ぬ直前、瑠璃に何かを渡そうとして、何者かにそれを阻まれ、湖の底へと葬られたのだ。


「……秘密の譜面。……わしに託されるはずだった、皐月家の、あるいは如月コンツェルンの『不純な果実』か。……それが今も鳴り続けておると言うのじゃな」


 瑠璃は、時計をポケットにねじ込み、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女の瞳からは、先ほどまでの動揺や怯えが完全に消え去り、代わりに、この街すべてを解剖してやるという、狂気的なまでの決意が宿っていた。


「……サクタロウ。……次じゃ。……この時計が指し示した、譜面の隠し場所。……それは、わしとお主が今朝までいた、あの場所……旧校舎の図書室。……その『地下の暗渠』に眠る、皐月家の真実じゃ」


「図書室の……地下? あそこには何もないはずです。……僕も何度か掃除させられましたけど……」


「……お主のような、表面の塵しか見ぬ者にはな。……だが、あの『オルゴールのハンドル』があれば……七年前から止まっていた歯車は、喜んで回り始めることじゃろうよ」


 僕たちは、新市街の偽りの光を背に、再び影の濃い旧校舎へと走り出した。

 九条一馬の、低く、しかし確実な嘲笑が、夜風に混じって聞こえた気がした。


 時計の針が動き出した時、それは同時に、如月瑠璃という少女の『七年越しの復讐』が幕を開けた瞬間でもあった。



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