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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『忘却の残響』 ~Section 3:五線譜の裏帳簿と、オタクの解析術~

 新市街の完璧な秩序を維持する管理AIの監視網は、深夜になればなるほど、その『論理の眼』を鋭く光らせる。

 僕は、旧市街の定食屋『山ちゃん』の二階、慎之介の自室にいた。

 部屋を埋め尽くすのは、新市街のクリーンなデザインとは対極にある、剥き出しのマザーボード、絡まり合ったケーブル、そして数えきれないほどの魚魚ラブ限定グッズの山。しかし、このカオスな空間こそが、月見坂市の表のネットワークでは決して辿り着けない『情報の深淵』への入り口だった。


「……慎之介、頼む。如月さんの時間が止まったままなんだ。この『皐月家』の倒産にまつわるデータを、如月コンツェルンの一次サーバーから引きずり出してくれ」


 僕は、あの電話ボックスで拾った靴下と、瑠璃から預かったマイクロSDカードを慎之介の前に差し出した。

 慎之介は、いつもの飄々とした態度を捨て、度の強い眼鏡の奥で、職人のような鋭い光を宿していた。彼は魚魚ラブの限定ライブTシャツを誇らしげに揺らしながら、四枚のモニターを同時に起動させる。


「……サク。お前、自分が何を頼んでいるか分かってるのか?皐月淳之助の汚職事件は、如月グループがこの街の覇権を握る際、最も深く『埋め立てた』歴史の一部だ。これに触れることは、新市街の心臓部に素手で触れるようなものだよ」


「わかってる。でも、如月さんは……あの靴下を、遺品じゃなく『昨日編まれたもの』だと断定したんだ。優奈さんの筆跡を完璧に模倣した、誰かの挑戦状だって」


「……ふむ。いいだろう。魚魚ラブの聖域を守った僕たち親衛隊に、不可能はないからね」


 慎之介の太い指が、キーボードの上を猛烈な速さで舞い始めた。モニターに映し出されるのは、理解不能な文字列の羅列と、新市街の各中継局を示す光の脈動。

 彼は如月グループの広報サイトの脆弱性を突くと、そこを足がかりに、七年前の『アーカイブDエリア』へと強引に割り込んでいった。


「……おっと。ここ、通常の管理AIの監視じゃないな。特定のプロトコルで保護されてる。……まるで見つけてくれと言わんばかりの、奇妙な『隙間』があるよ。……サク、これを見て」


 慎之介が拡大した画面には、当時の皐月家の倒産報告書の、公式には削除されたはずの添付ファイルが表示されていた。

 それは、数字の羅列ではない。

 五本の線の上に、不規則な穴がいくつも開けられた、細長い短冊状のデータ――。


「これって……オルゴールの楽譜(パンチカード)じゃないか?」


「正解だよ、サク。……皐月家は音楽家の一族だ。当時の代表・淳之助(あつのすけ)は、汚職の証拠とされる『裏帳簿』のデータを、クラシック音楽の旋律に変換して、オルゴールのカードとして保存していたという都市伝説がある。……誰もがただの楽譜だと思うその中に、銀行の口座番号や、賄賂の送り先の住所が隠されていたんだ」


 慎之介の言葉に、僕は瑠璃が見つけた『真鍮のハンドル』を思い出した。

 あのハンドルは、この楽譜を読み解くための『鍵』そのものだったのではないか。


 一方その頃。

 如月瑠璃は、自らの聖域である図書室の奥、月光さえも遮断された『禁忌の棚』の前で、あの紺色と白の靴下を解剖していた。

 彼女は、顕微鏡さえも使わない。

 自らの指先の繊細な触覚と、嗅覚、そして記憶の糸だけを頼りに、編み目の一本一本に刻まれた『意思』を読み取っていく。


「……ふむ。やはりな。この編み目のテンション、一定ではない。……三目(みめ)ごとに、僅かな弛みがある。……そしてその弛みが、全体として一つの『リズム』を刻んでおる」


 瑠璃は、手帳に謎の数式と、音楽の休止符のような記号を並べていく。

 彼女の脳内では、九歳の夏、皐月優奈と共に不知火湖のほとりで聴いたオルゴールの音が、鮮明に、しかし不協和音を伴って再生されていた。


「……優奈。お主、あの夏、わしに何を伝えようとしておった。……この靴下の編み目、これはお主の指先の癖ではない。……お主の父、淳之助が残した『無音の旋律』のトレースじゃな」


 瑠璃は、紺色の靴下をそっと(ほど)き始めた。

 最高級のウール糸が、彼女の指の間をすり抜け、一本の長い糸へと戻っていく。その糸が、図書室の床に落ちるたび、カチ、カチ、と微かな金属音が響いた。


「……な、なんじゃ、これは」


 瑠璃の瞳が、驚愕に見開かれる。

 糸の芯。本来ならパルプやナイロンで作られているはずの中心部に、髪の毛よりも細い、極薄の『真鍮のワイヤー』が編み込まれていたのだ。そしてそのワイヤーの表面には、肉眼では捉えられないほどの微細な、しかし物理的な『刻み目』が連続していた。


「……蓄音機(フォノグラフ)の原理か。……誰かが、この靴下の糸そのものを、音の記録媒体に変えたというのか」


 瑠璃は、皿の上に置かれたあの『真鍮のハンドル』を手に取った。

 彼女は、ハンドルを宙で回すように、手首を一定の速度で回転させる。


 キィ、キィ、キィ……。


 静まり返った図書室に、あの電話ボックスで聴いた声とは別の、もっと古く、もっと重々しい『音』が響き始めた。

 それは、優奈の声ではない。

 一人の大人の男――皐月淳之助が、破滅の直前に残したであろう、震える溜息だった。


 ――『瑠璃さん……。この旋律が届く時、私はもういないでしょう。……でも、覚えていてほしい。……不知火湖の底には、音楽では救えなかった、もっと深い『罪』が沈んでいるのです』


 瑠璃の持つハンドルが、カクンと止まる。

 彼女の指先に伝わる真鍮の振動が、そのまま彼女の心臓を射抜いた。


 同じ頃、慎之介の部屋で、僕たちは一つの『座標』に辿り着いていた。


「……サク!出たぞ!皐月家の裏帳簿データが示す、最後の送金先……。それは特定の個人じゃない。……如月グループの、未公開の『気象管理局』の特別予算枠だ!」


「気象管理局……?天気を操るための部署か?」


「違う。……そこは、七年前に『不知火湖の地盤調査』を担当していた部署だ。……そして、その当時の局長の名前は……」


 慎之介の手が、キーボードの上で止まった。

 画面に表示されたのは、若き日の如月コンツェルンの幹部たちのリスト。

 その最上段に、不敵な笑みを浮かべた一人の男の顔写真があった。


 九条一馬。


 彼は七年前、如月家の内部において、地質調査の責任者として、優奈が亡くなったあの湖の管理を一手に行っていたのだ。


「……すべてが、あの湖に繋がっているのか」


 僕は、背筋に冷たい氷を押し付けられたような感覚に陥った。

 皐月家の汚職も、優奈の死も、そして今、僕たちの元に届いた靴下も。

 すべては九条一馬という『設計者』が、七年前から用意していた巨大なスコアの一節に過ぎなかったのか。


 その時、慎之介のモニターが、激しい赤色に染まった。


『侵入を検知。……管理AI・タイプ:プロメテウスによる強制排除を開始します』


「……っ、サク、逃げろ!逆探知が来る!この部屋のIPが焼かれる前に……!」


「慎之介!!」


 爆発音のような電子音が響き、慎之介の自室のすべての電気がショートして消えた。

 暗闇の中で、魚魚ラブの限定ぬいぐるみの瞳だけが、不気味に赤く光っている。


 そして、僕のスマホに、一通の着信があった。


 それは、優奈が手紙に書いたあの筆跡を、デジタルフォント化したような文字で打たれていた。


『次は、湖の上で会いましょう。……沈まない時計が、あなたの終焉を刻む前に』


 僕は、震える足で暗闇の廊下を駆け出した。

 如月瑠璃の時間が動き出し、僕たちの『日常』が、不知火湖の冷たい水底へと引きずり込まれようとしていた。



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