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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『忘却の残響』 ~Section 2:雨の電話ボックスと、双子の片靴下~

 新市街の清潔で無機質な高層ビル群が背後へと遠ざかり、空気が次第に、重く、湿り気を帯びたものへと変質していく。

 僕たちは旧市街の一角、『レトロ純喫茶・琥珀』の近くにある、今やこの街でも数少なくなった公衆電話ボックスの前に立っていた。管理AIがすべての通信を監視し、誰もが個人デバイスを持つこの時代において、電話ボックスは役割を終えた『情報の墓標』のような存在だ。ガラスには長年の埃と排気ガスの汚れがこびりつき、内部の受話器は、誰かが最後に話した言葉を閉じ込めたまま、冷たく沈黙している。


「……如月さん。手紙には『タスケテ』としか書かれていなかったのに、なぜここだと分かったんですか?僕にはただの、古臭いお化け屋敷の小道具にしか見えませんけど」


 僕は、錆びついた扉を慎重に押し開けながら尋ねた。

 キィ、という耳障りな金属音が、午後の淀んだ空気に響く。ボックスの中は、外よりも一層、時間が腐敗して止まっているかのような密閉感があった。埃っぽい匂いと、僅かなカビの臭気。そして、新市街では決して嗅ぐことのない、古い真鍮とグリスの匂い。


「……サクタロウ。お主はわしが、根拠もなく足を運ぶとでも思っておるのか。……昨日、この電話ボックスの座標が、如月コンツェルンの管理ドローンの巡回ログから、不自然な『空白』として弾き出されたのじゃ。……完璧な監視網に空いた、わずか数秒の穴。……そして、その直後にこの手紙が届いた。……因果関係を疑わぬ方が、知性の欠如というものじゃよ」


 瑠璃は、ボックスの外からその光景を冷徹に見つめていた。だが、その瞳の奥には、図書室で見せたあの激しい動揺が、薄い氷の下の激流のように依然として渦巻いている。

 僕は、彼女に言われる前に保存容器(タッパー)を取り出し、電話機の下の狭い物置台に置かれた『それ』を、まるで地雷でも扱うような手つきで拾い上げた。


「……これ、靴下ですよね。左右バラバラですよ。こっちは紺色のハイソックスで、もう片方は、白くてレースがついた短い靴下。……サイズは、どっちも子供用、かな。誰かの忘れ物にしては、あまりにも作為的すぎます」


「……触れるな、サクタロウ。その『不純物』の重みを、お主の粗野な指先でこれ以上汚してはならぬと言っておるのじゃ。その繊維の一本一本に、わしにしか解読できぬ記憶が編み込まれておるのじゃからな」


 瑠璃の声は、鋭く、それでいてどこか泣き出しそうなほど震えていた。

 彼女は僕の横をすり抜け、狭いボックスの中へと足を踏み入れた。彼女の存在によって、電話ボックスという小さな棺桶(ひつぎ)のような空間が、一気に『過去』という名の熱気に支配される。

 彼女は、まるで生きた小鳥の羽に触れるように、その紺色の靴下を凝視した。


「……見てみよ。その紺色の靴下の足首の部分。……銀色の糸で、小さな『ワイ』の刺繍がしてある。……そして、その白のレースの靴下の方には……」


「あ……こっちは、『アール』ですね。……優奈さんのYと、瑠璃さんのR。イニシャルを交換して持ってたってことですか?」


「左様。……それは単なる事務的な記号ではない。……それは、『瑠璃(Ruri)』と『優奈(Yuna)』を繋ぐ、幼き日の、もう二度と戻らぬ約束の刻印じゃ。お互いの持ち物を半分ずつ交換し、片方ずつ持つことで、離れていても一つの観測者であると誓い合った証拠なのじゃよ。……お主にわかるか? この白の靴下は、七年前、警察の証拠品袋に入れられ、その後、如月コンツェルンの管理倉庫で永久欠番として封印されたはずのものなのじゃぞ」


 瑠璃の言葉に、僕は背筋が凍るような戦慄を覚えた。

 紺色の靴下は、瑠璃が贈り、優奈が持っていたはずの、本来なら手元にないはずの『遺品』。

 白の靴下は、七年前、冷たい水底で発見された優奈の遺体に付随していた『証拠品』。

 それがなぜ、今、この旧市街の忘れ去られた電話ボックスに、まるで今朝洗濯したてのような清潔さを保ったまま、対になって並んでいるのか。


「……如月さん。これ、おかしいですよ。刺繍の糸が……まるで昨日縫ったみたいに、新しすぎます。七年前のものなら、もっと色が褪せているはずだ。それに、この『Y』のハネ……どこか独特ですね。最後が少しだけ、鍵のように曲がっている」


「……気づいたか。……その『Y』の最後の曲線、わしが九歳の頃に書いた筆跡の癖を、完璧に……あまりにも残酷なまでにトレースしておる。……だが、わしは七年前から一度も、針と糸など手にしてはおらぬ。わしの指が覚えているはずのあの痛みを、この世界のどの縫製ドローンも、再現できるはずがないのじゃ」


 瑠璃は、靴下を顔に近づけ、その匂いを深く吸い込んだ。彼女の鼻腔が微かに震え、眉が、深い不快感と……そして、ある種の懐かしさに沈み込む。


「……微かな、クレゾールの匂い。……そして、この街の地下深くを流れる、古い『配管の錆』の匂い。……この靴下は、つい数時間前まで、日光の届かぬ冷たい場所に保管されておったのじゃ。……不知火湖の底のように、光も希望も届かぬ、湿った闇の中に、な」


「……誰かが、優奈さんの遺品を保管していて、それをここに並べた……?目的は何なんですか。如月さんを誘い出して、過去のトラウマを抉るため……九条の仕業ですか?」


「……九条であれば、もっと派手で、下俗な演出を好むはずじゃ。……例えば、この受話器から優奈の断末魔を流すような、な。……だが、この『靴下の提示』は、あまりに静かで、あまりに……わしの知性を試すような、冷徹な挑戦状に近い。優奈が生きていた頃に交わした、あの『謎解き』の続きを強要されているような気分じゃ」


 瑠璃は、電話ボックスのガラスを、愛用の万年筆の先でコツリと叩いた。その音は、止まっていた心臓を再び動かすスイッチのように響いた。

 その瞬間、受話器がガタ、と震え、投入口から十円玉が落ちるチャリンという音が、静寂を切り裂いた。

 誰もいない、誰も使っていないはずの電話ボックス。

 宙吊りになった受話器から、ノイズ混じりの、しかし透き通るような音が漏れ出す。


『……瑠璃。……聞こえる?……この靴下のペア、まだ揃っていないわよ。……あの日、あなたが私に言ったこと、覚えているかしら? 私たちの半分は、まだあの湖の底にあるのよ……』


 それは、瑠璃が語った『品のある言葉遣い』そのものの、どこか感情を排した、しかし知性に満ちた少女の声だった。

 皐月優奈。

 七年前に死んだはずの親友が、時間の断絶を嘲笑うように、受話器の向こうから、今、語りかけてきた。


「……っ、優奈!?優奈さんなのか!?」


 僕は思わず受話器を掴むべく手を伸ばした。だが、瑠璃の手が、僕の腕を骨が軋むほどの力で制した。


「……動くな、サクタロウ。……これは『声の記録』ではない。……新市街の管理AIが、過去の音声データを不純に繋ぎ合わせて生成した、デジタルな亡霊の戯言(たわごと)じゃ。……お主のような単純な者が、その罠に嵌まってどうする」


「でも、今の声は……!あんなの、人間じゃなきゃ出せないニュアンスですよ!」


「……わかっている。……わかっているのじゃ。……この声の波形、わしがかつて耳にタコができるほど聞いた、彼女の『論理的な否定』の響きそのもの……。……九条、あるいはこの街の影に潜む何者かよ。お主、ここまでわしを愚弄するか。わしの『レンズ』を、偽物の光で曇らせようとするな!」


 瑠璃の瞳に、激しい怒りと、それ以上に深い『孤独』の炎が灯った。彼女は、電話ボックスの壁に貼られた、色褪せた古い地図を指差した。そこには、一箇所だけ、赤いマジックで小さな『×』印が、まるで血を滴らせるようにつけられていた。


「……次の座標じゃ。……サクタロウ、この靴下を、わしの図書室にある『禁忌の棚』へ運べ。……そして、お主のあの情報の不純物を愛でる男……山田を呼べ。……この『声』がどこから送信されたのか、新市街の光ファイバーの網を逆流して突き止めるのじゃ。一ビットのノイズも見逃すなと伝えよ」


「如月さん……。如月さんはどうするんですか?」


「……わしは、この靴下の『編み目』を解剖させてもらう。……この糸の太さ、この繊維の摩擦係数……。これがかつて、優奈の指先で編まれたものか、あるいは、最新の3Dプリンタが捏造した無機質な偽物か。……わしの五感という名の審判が、真実を白日の下に晒してやるのじゃ。……優奈の魂を、偽造品の山に埋もれさせてたまるか」


 瑠璃は、紺色の靴下を、宝物か呪物のように胸に抱きしめ、電話ボックスから飛び出した。彼女の白い頬を、旧市街の重く、冷たい雨粒が叩く。その姿は、あまりにも脆く、そしてあまりにも峻厳だった。

 僕たちはまだ知らなかった。

 この『靴下の双子』が、皐月家の没落という巨大なパズルの、ほんの導入部分に過ぎないことを。そして、この電話ボックスの地下、新市街の光も届かぬ暗渠(あんきょ)の中で、七年前から止まったままの『別の巨大な、金属の歯車』が、静かに、しかし確実に、血を求めて回り始めていることを。



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