第4話『忘却の残響』 ~Section 5:不知火湖の幻影と、九歳の解答~
深夜の旧校舎は、新市街の喧騒から切り離された、完全なる静寂の檻だ。
僕たちは、再びあの図書室へと戻っていた。しかし、数時間前とは空気の質が違う。床の軋み、古書の匂い、そのすべてが『何か』を待っているかのように、濃密な重圧を伴って僕たちの肌を撫でた。
「……サクタロウ。その『ハンドル』を、この書架の三段目、右から十二番目の空隙に差し込め。……わしの力が届かぬ場所にある、不純な歯車を回すのじゃ」
瑠璃は、月の光が差し込む窓際に立ち、指示を出した。彼女の指先には、人工湖で負った傷を隠すように、黒いレースの包帯が巻かれている。
僕は言われるがまま、あの真鍮製のオルゴールハンドルを、本棚の隙間にあった不自然な『穴』へと差し込んだ。
ガリ、ガリ、ガリ……。
金属が錆び付いた音を立て、ハンドルが回る。
すると、本棚の奥から、重量感のある石の擦れる音が響き、図書室の床の一部が、静かに、そして滑らかに沈み込んでいった。
現れたのは、地下へと続く螺旋階段。
そこからは、図書室の乾燥した空気とは対極にある、湿り気を帯びた『湖の匂い』が立ち上ってきた。
「……これ、旧校舎の地下に、不知火湖から水を引き込んでるんですか?」
「否。……ここは、不知火湖の『影』なのじゃよ、サクタロウ。……九歳の夏、わしと優奈が、大人たちの目を盗んで作り上げた、秘密の観測所。……いや、皐月家が隠蔽した『音の墓場』と言うべきか」
瑠璃を先頭に、僕たちは暗い地下へと降りていった。
階段を下り切った先には、ドーム状の石造りの空間が広がっていた。壁には無数の銅製のパイプが走り、中央には、新市街の管理システムからは完全に隔離された、旧式の「水圧測定器」が鎮座している。 そして驚くべきことに、その空間の床下には、暗渠となった水路が流れており、その水面は、腕時計が浮かんでいた人工湖とは比較にならないほど、黒く、淀んでいた。
「……見てみよ。この水圧計の針を」
瑠璃が指差した先には、七年前から止まったままの、古いメーターがあった。
そこには、赤いインクで『14時48分』の文字が書き添えられている。
「……七年前、優奈が湖のほとりで発見された時、公式の記録では、不知火湖の水位は『平常』であったとされておる。……だが、わしと優奈がこの地下で見守っておったこの針は……その瞬間、限界値を振り切って、逆流を示しておったのじゃ」
「逆流……?湖の水が、どこかに吸い込まれたってことですか?」
「左様。……新市街の土台を築くための地盤改良工事の裏で、何者かが不知火湖の底を不当に掘り進め、地下に巨大な『空洞』を作っておった。……そして、あの夏の午後、その空洞が崩壊したのじゃよ。……優奈は泳いでいて溺れたのではない。……突然発生した巨大な渦に、あの湖の真実に触れようとした瞬間に、引きずり込まれたのじゃ」
瑠璃の声が、冷たい石壁に反響する。
彼女は、暗渠の縁にしゃがみ込み、水面を凝視した。
水路の奥からは、カラン……カラン……と、何かが金属に当たる、虚しい音が聞こえてくる。
「……優奈は、わしよりも先に気づいておった。……皐月家が如月コンツェルンから受け取っていた裏金は、汚職などではなく、この『崩壊する地盤』を黙認するための、口封じの対価であったことを。……彼女はそれを、音楽の旋律に変えて、わしに伝えようとしたのじゃ。……『瑠璃、この街の根っこは、もう腐っているわ』とな」
その時。
暗渠の向こう側、闇の奥から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
カチ、カチ、カチ……。
それは、慎之介の部屋を焼いた、あの無慈悲な管理システムの足音ではない。
もっと個性的で、もっと傲慢な、一人の男の足音だ。
「……ふむ。九歳の解答としては、満点に近いな。如月瑠璃」
闇の中から現れたのは、白いスーツを完璧に着こなした九条一馬だった。
彼の背後には、二人の武装した警備員が、無機質なライフルを構えて控えている。
九条は、手に持った最新型のタブレットを弄びながら、楽しげに目を細めた。
「九条……!やっぱり、あんたが仕組んだことだったのか!」
僕は叫んだが、九条は僕を一瞥もせず、ただ瑠璃だけを見つめていた。
「……仕組んだ?違うな、サクタロウ君。私はただ、七年前に『未完』のまま放置されていたスコアを、今の瑠璃に演奏させているだけだ。……皐月優奈という稀代のソプラノが、命を賭して残した不純な絶叫をね」
「……九条。お主、この暗渠の下に何を隠した。……優奈が死の直前に握りしめておった、あの『秘密の譜面』……。お主、それを回収できずに、七年間この地下に封印しておったのじゃな」
瑠璃の指摘に、九条の口角が微かに上がった。
「……ああ、そうだ。あの娘は、私にとっても誤算だった。……崩壊する湖底に呑まれながらも、彼女は『真実』を、自分にしか開けられない箱の中に閉じ込めた。……そしてその箱を開けるためのキーこそが、今君の手にある、その真鍮のハンドルと、あの日彼女が履いていた靴下の編み目だ」
九条は、優雅な手つきで一歩前に出た。
「……さあ、瑠璃。……そのハンドルを、この水圧計の裏側にある第二のソケットに差し込め。……そうすれば、不知火湖の真実が、そして如月コンツェルンが隠し続けてきた『月見坂市の脆弱性』が、すべて白日の下に晒される。……君が望む、完璧な解答だ」
「……断る。……わしはお主の道具ではない」
「……断る?ほう、面白い。……だが、君がそれをしなければ、この暗渠の水位はあと五分で急上昇し、この図書室ごと、君の愛する『不純な過去』をすべて洗い流してしまうように設定してある。……優奈の筆跡で送った手紙、あれは嘘ではない。……彼女の残したデータが、このシステムの中で今も『助けて』と叫んでいるのは事実なのだから」
九条がタブレットを操作すると、暗渠の水位が、ゴーッという地鳴りとともに上昇し始めた。
冷たい水が、僕たちの足元を濡らす。
「……如月さん!!水が……!!」
僕は瑠璃の腕を掴んだ。
だが、瑠璃は動かなかった。
彼女は、水位計の針と、暗渠の闇を交互に見つめ、九歳の頃に優奈と交わした最後の対話を思い出していた。
『――瑠璃、もし世界が水に沈んでも、あなたは【音】を頼りに、私を見つけてくれる?』
優奈の、品のある、しかし強い意志を持った声が、耳の奥で蘇る。
「……サクタロウ。……ハンドルを渡せ」
「如月さん……?」
「……九条の言う通り、ゼンマイを巻いてやる。……だが、それはお主の望む絶望の旋律ではない。……わしと優奈が、七年前に書き残した、この街への『鎮魂歌』じゃ!!」
瑠璃は、僕からひったくるようにハンドルを奪うと、水位計の裏側へ、渾身の力でそれを突き立てた。
キリ、キリ、キリ……。
空間全体が、巨大な音楽箱のように鳴動し始める。
暗渠の底から、泡と共に浮上してきたのは、錆びついた小さな『金属の箱』だった。
「……やっとお目にかかれた。……皐月優奈の、最後の遺産に」
九条が狂喜の声を上げた。
しかし、その瞬間。
瑠璃の口元に、あの不敵で残酷な、いつもの『勝利の笑み』が戻った。
「……おめでたいな、九条。……お主、優奈の本当の才能を、何も理解しておらぬな」
箱が開いた瞬間、そこから溢れ出したのは、データでも金塊でもなかった。
――それは、あまりにも強烈な、不知火湖の『腐った泥の臭気』と、空間を物理的に引き裂くような、超高周波の『不協和音』だった。




