第十章 愛
激しい戦闘の後に訪れたのは、深海の研究施設に似合わない、重苦しい静寂だった。
中央ホールでは、如月会長の残骸が散乱し、暴走を止めたアヤメが、悠也の体を抱きかかえていた。
彼女は、悠也の腹部に開いた、血が噴き出すほどの深い傷を、震える手で強く押さえていた。
「悠也さん……!ダメ、血が……止まらない!」
アヤメは、その透き通るような顔を絶望に歪ませた。彼女の体内のナノマシンは、適合体の結合を解き、暴走を停止させる力はあっても、これほどの重傷を治療する術は持っていなかった。
その時、ホールの奥、瓦礫の陰から、再びあの不気味な声が響いた。
「ハハハ。本当に、見事な幕引きだったよ」
ニャルラトホテプが、あの少年の姿で、ゆっくりと姿を現した。
「君の勝ちだよ、七瀬のお兄さん。僕の用意した最高の舞台装置も、七瀬博士の仕込んだ人間の心には勝てなかった。全く、人間というのは、つくづく面白くないね」
アヤメは、悠也を庇うように立ち上がった。
「あなた……!これ以上、私たちに何をさせようというの!」
ニャルラトホテプは、肩をすくめた。
「もう何も。ただ、このまま死なせるには、七瀬賢人博士の最後の遺産を持つ君の存在は、あまりにも惜しい」
そう言って、ニャルラトホテプは、宙に浮かせた、小さな青い光の結晶をアヤメの前に提示した。
「これは、君の博士が、五年前の事故の直前に、私に解析させた究極の治療プログラムのデータだ。ナノマシンを単なる兵器ではなく、生命維持装置として、血縁の生体情報を持つ者に施すための、最後の施策」
彼は、冷たい真顔で、このプログラムの核心を告げた。
「しかし、この治療プログラムを実行すれば、君の肉体を構成するナノマシンは、彼の傷口から体内に入り込み、君たちの生命活動を完全に共有することになる。つまり、二人の命は、これから一つになる。一方が傷つけば、もう一方も傷つく、究極の運命共同体だ」
ニャルラトホテプは、再び不気味な笑顔に戻った。
「その代償として、君たちの身体は、完全にナノマシンの影響下に置かれることになる。もう後戻りはできない。さあ、選びなよ、アヤメ。死を選ぶか、ナノマシンの呪いと共に、永遠の命の共有を選ぶか」
彼は、青い光の結晶をアヤメに押しつけると、嘲笑をホールの残響に残し、あっという間にその場から姿を消した。
アヤメは、青い光の結晶を震える手で受け取った。彼女には、迷いはなかった。
「命を共有する……。それが、博士の残した愛の形なのね」
アヤメは、結晶を握りつぶし、その中から溢れ出した青いナノマシンの光を、意識を失いかけている悠也の腹部の傷口に、直接浴びせた。
青いナノマシンの粒子は、悠也の体内に浸透し、彼の生命活動の代行を開始する。そして、その一部はアヤメの体へと逆流し、二人の体内で融合した。
悠也の命は、今、アヤメと博士の遺産によって、永遠に繋ぎ止められたのだった。




