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AIについてエッセイまとめ  作者: 水源


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『AI臭い文章』とは、綺麗すぎる文章なのか

 最近、「この文章はAI臭い」という言葉をよく見かける。


 では、そもそも「AI臭い文章」とは何なのだろう。


 文法がおかしい文章のことだろうか。


 不自然な言い回しが多い文章のことだろうか。


 それとも、やたらと丁寧で、説明ばかりが続く文章のことだろうか。


 もちろん、そういう文章もAI臭く感じる。


 しかし、昔と違って、チグハグな文章をAIが出してくることはかなり減った気がする。


 では、今の私が感じる「AI臭さ」は何なのか。


 それは――文章が、軽薄短小で、綺麗だが妙に作り物めいた感じになりすぎていることではないだろうか。


 昔の韓国エステの広告に出てくるキャストの顔が、まさにそんな感じだった。


 整っている。


 綺麗だ。


 なのに、どこか同じように見える。


 あれがパネマジなのか、整形の結果なのかは分からないが。


 ……まあ、いきなり何の話をしているんだという感じではある。


 だが、文章も少し似ているのではないかと思う。


 ここでいう軽薄短小は、文章が短いという意味ではない。


 最低限の説明だけを残し、重複を削り、冗長な表現を取り除く。


 読みやすくするために文章を整理し、展開を滑らかにする。


 そうやって、余分なものをどんどん削っていく。


 確かに、文章は綺麗になる。


 読みやすくもなる。


 けれど、そこで削っているのは、本当に「余分な部分」だけなのだろうか。


 ここで大事なのは、「不要なものを削る」のと、「作者にしかないものまで削る」のは違うということだ。


 誤字や重複。


 意味が通らない表現。


 何度読んでも分かりにくい説明。


 そういうものは、削ったり直したりしていい。


 むしろ、削ったほうが文章は読みやすくなる。


 けれど、作者が妙にこだわっている部分。


 本人にしか気にならないような細部。


 なぜかそこだけ長く書きたくなるところ。


 本筋から少し外れているのに、どうしても書きたくなる場面。


 そういうものまで「冗長だから」と削ってしまえば、それはもう単なる推敲ではない。


 作者自身を削っている。


 その過程で、書き手の偏りや、文章の臨場感まで一緒に削ってしまうことがある。


 例えば、


「俺はラーメンを啜った。うまい」


 これだけでも、何が起きたのかは分かる。


 主人公がラーメンを食べて、美味しいと思った。


 情報としては、それで十分だ。


 だが、湯気が顔に当たり、鶏ガラと醤油の香りが空腹を刺激する。


 熱いスープを一口飲み、その熱さに舌が驚く。


 それでも、もう一口飲みたくなる。


 そんな描写があれば、読者は「美味しかった」と理解するだけではなく、その場にいる主人公の感覚まで想像しやすくなる。


 場合によっては、


「メシテロするな」


 などという感想まで飛んでくる。


 もちろん、すべての場面を細かく書けばいいわけではない。


 大事なのは、何を細かく描き、何をあえて描かないのかだ。


 例えば、目の前に美しいエルフがいたとしても、


「そこにいたのは、美しいエルフだった」


 だけで終わらせることはできる。


 だが、


 銀色の髪が木漏れ日を受けてきらめいている。


 尖った耳が見える。


 そして、こちらを警戒する緑色の瞳が、じっと俺を見ている。


 そう書けば、同じ「美しいエルフ」でも、主人公がどこに目を向け、何を印象に残したのかが見えてくる。


 髪を見るのか。


 瞳を見るのか。


 表情を見るのか。


 あるいは、武器を持っているかどうかを見るのか。


 その選び方だけでも、主人公がどんな人間なのかは変わってくる。


 だから、臨場感は単純に描写を増やせば生まれるものでもない。


 何を見るのか。


 何を感じるのか。


 何をあえて書かないのか。


 その選択に、書き手の個性が宿る。


 ちなみに、私がやりがちな「知識の羅列」を、AIがセリフや動作、情景に置き換えてくれるのは、とてもありがたい。


 私は、それを目的にAIに文章を読みやすくしてもらっていた。


 だから最初は、文章を整えてもらうことに何の疑問も持っていなかった。


 だが、人間が書く文章は、案外一様ではない。


 好きなものには妙に詳しくなる。


 逆に、興味のないものは一言で済ませる。


 どうでもいいところは大胆に飛ばすくせに、自分にとって重要なところだけ、急に長くなる。


 そういう偏りがあるからこそ、その文章には「誰か」がいる。


 同じ町を歩いていても、誰もが同じものを見るわけではない。


 腹が減っている人間なら、店先の料理に目が行く。


 警戒している人間なら、通りを歩く人間の顔を見る。


 故郷を思い出している人間なら、何気ない風景に昔の記憶を重ねる。


 人間は、自分の経験や感情というフィルターを通して世界を見ている。


 文章も同じだ。


 何を描くのか。


 何を描かないのか。


 どこで立ち止まり、どこを素通りするのか。


 そこに、その人間の個性が出る。


 ところが、AIに「読みやすくしてほしい」「読者を引き込む文章にしてほしい」と頼むと、文章はその目的に合わせて整理されていく。


 必要な情報を残す。


 重複を取り除く。


 説明を分かりやすくする。


 展開を滑らかにする。


 これだけなら、何も悪いことではない。


 むしろ、とても便利だ。


 問題は、AIが削ることそのものではない。


 こちらが「何を削っていいもの」と判断してしまうかだ。


 私自身、以前はAIに、


 「カクヨムで読まれる文章にしてほしい」


 と指示していた。


 読者を引き込みたい。


 読みやすくしたい。


 途中で離脱されたくない。


 そのために、文章を整理してもらった。


 冗長なところを削ってもらった。


 重複をなくしてもらった。


 テンポも良くしてもらった。


 そのときは、それで正しいと思っていた。


 だが、今になって振り返ると――。


 あれは失敗だったのかもしれない。


 文章は確かに、カクヨムで読まれそうな形になっていた。


 短い。


 読みやすい。


 展開も早い。


 引っかかるところも少ない。


 でも、読み返してみると妙に他人行儀だった。


 私が何を長く書きたがるのか。


 どこに妙なこだわりを持っているのか。


 どんなところで話が横道に逸れるのか。


 そういうものが、綺麗に消えていた。


 例えば、本来なら、


「いや、そこまで説明しなくてもいいだろ」


 と思われるくらい書きたかった場面まで、必要な情報だけを残して整理されている。


 説明としては間違っていない。


 むしろ、分かりやすい。


 だから余計に気づきにくかった。


 自分の文章が、上手くなったように見える。


 けれど、よく見ると、自分がいない。


 そして、それだけではなかった。


 文章の臨場感まで薄くなっていた。


 主人公が腹を空かせている。


 喉が渇いている。


 暑くて汗をかいている。


 寒くて身体を縮めている。


 目の前の光景に息を呑んでいる。


 そうした細かな感覚まで、文章を読みやすく整理する過程で削られていた。


 気がつけば、自分が書いた文章なのに、自分の文章ではないように感じる。


 読みやすくはなっている。


 整ってもいる。


 なのに、どこか薄い。


 まるで、自分の文章を磨いていたつもりが、自分がその場で感じていたものまで削り取ってしまったような感覚だった。


 そこで初めて気がついた。


 私は「読まれる文章」を求めるあまり、「自分が書いた文章であること」までAIに任せてしまっていたのだ。


 もちろん、読まれることは大切だ。


 小説を書く以上、読者に読んでもらいたい。


 読みづらい文章を、わざわざ「これが個性だから」と放置する必要もない。


 私の場合、知識の羅列をセリフや動作、情景に変えてもらえることには、今でもかなり助けられている。


 だから、AIを使わないほうがいいという話ではない。


 問題は、どこまでAIに任せるかだ。


 誤字を直してもらう。


 分かりにくい説明を整理してもらう。


 重複を減らしてもらう。


 知識の羅列をセリフや動作、情景に変えてもらう。


 それはいい。


 けれど、


 「ここは自分が妙にこだわっているから残す」


 「ここは少しくどいけれど、この長さだからこそ主人公の執着が伝わる」


 「この横道は本筋には関係ないけれど、自分はどうしても書きたい」


 そういう判断まで、AIに任せてはいけない。


 そこまで削ってしまえば、文章は読みやすくなっても、自分の文章ではなくなってしまう。


 ……もっとも。


 ここまで書いているこのエッセイですら、AIには何度も、


「もう少し削ったほうがいい」

「重複している」

「ここは圧縮できる」


 などと言われている。


 いや、ちょっと待ってくれ。


 今まさに、「削りすぎるな」という話を書いているところなんだが。


 ……まあ、それも含めて、このエッセイなのかもしれない。


 AIに文章を磨いてもらう。


 それはいい。


 ただし、磨きすぎて、自分まで一緒に削ってしまってはいけない。


 文章を綺麗にすることと、自分の文章を綺麗にすることは、同じではない。


 最後まで残すべきなのは、文章の綺麗さだけではない。


 その文章を書いた人間そのものなのだ

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― 新着の感想 ―
非常に有名な詩の一節です。 『野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ』 試しにあの詩を、ご使用中のAIに推敲させてみて下さいな。 たぶん、そのAIの、『弱点』が見えますから。 ついでにあの詩…
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