「カクヨムで読まれる文章」にしたら、重厚な描写という作品の個性まで消していた
先日、少し考えさせられる感想をいただいた。
かなり率直な感想だった。
「連載開始当初は、非常に重厚で文章力の有る、知らないエリコの景色が見えてきそうな小説でしたのに、ワイン辺りから、ん?となって、今ではAI生成文章垂れ流しになってませんかね?汗」
そして、
「最初から読み直そうとしましたら、そちらも差し替えられてますかね? 何か非常に残念です…」
と続いていた。
正直に言えば、かなり刺さった。
ただ、ここで一つ事情を説明しておきたい。
この読者が「AI生成文章の垂れ流しでは?」と感じた文章。
実は私が、まさにAIに、
「カクヨムで読まれる文章にしてください」
と指示して、改稿していた文章だった。
つまり、
**「読みにくいと言われていた文章を、Web小説として読みやすくしよう」**
と思って改稿した結果、
**「AI文章を垂れ流しているように見える」**
と言われたわけだ。
これは、かなり考えさせられた。
そもそも私は、最初の文章が悪いと思って改稿した。
AIに指示した内容も、それほど特殊なものではない。
短い文章にする。
段落を短くする。
説明を整理する。
会話を増やす。
同じ内容を繰り返さない。
スマートフォンでも読みやすくする。
テンポを良くする。
読者が途中で離脱しないようにする。
いわゆる「カクヨムで読まれる文章」に近づけようとした。
これは、Web小説を書くなら当然必要なことだと思っていた。
実際、最初の頃の文章についてはAIから、
「説明が多すぎる」
「文章が重い」
「読みにくい」
と言われることもあった。
だから、読みやすくする必要があると思った。
ところが、今回の感想を読むと、どうも話は単純ではなかったらしい。
最初の文章には、読みにくさと引き換えに、別のものがあった。
それが、
「知らないエリコの景色が見えてくる」
というものだった。
これは、かなり重要な指摘だと思う。
最初の文章では、主人公がエリコで見たものを、かなり細かく書いていた。
干しレンガの家。
道。
人々の服装。
植物。
動物。
道具。
食べ物。
そして、それらを見た主人公が、自分の知識と照らし合わせて考える。
だから物語の進行だけを見れば、遅かったかもしれない。
でも、その分だけ「そこにいる感覚」があった。
主人公と一緒に、知らない町を歩いている。
知らない時代の人間を眺めている。
「これは何だろう」と考えながら、一つずつ世界を理解していく。
今回の感想を書いてくれた読者は、そこを好きになってくれていたのだろう。
ところが私は、それを「読みにくさ」と一緒に削ってしまった。
そして代わりに、
「読みやすい文章」
「短い段落」
「テンポの良い会話」
「分かりやすい説明」
を入れていった。
結果として、文章そのものは読みやすくなった。
しかし、作品の個性まで薄くなってしまったのかもしれない。
そこで改めて、自分の文章を見直してみた。
すると、AIを使った文章には、いくつか分かりやすい特徴が出ていた。
例えば、
「おお……」
「なるほど」
「そういうことか」
「これはありがたい」
といった主人公の反応。
もちろん、人間が書いても普通に使う表現だ。
問題は、それが何度も繰り返されることだ。
情報が出る。
主人公が驚く。
主人公が納得する。
さらに情報が出る。
また主人公が感想を言う。
これを繰り返していくと、文章としては非常に分かりやすい。
しかし、作者が世界を描いているというより、AIが情報を整理して読者に説明しているように見えてくる。
説明の増加も同じだ。
例えば山羊が出てきたら、
「山羊の祖先はパサン」
「家畜化の歴史は古い」
「粗食に耐える」
「乳が取れる」
「肉にもなる」
「牛や羊ほど広い放牧地を必要としない」
といった説明を入れる。
一つ一つは間違っていない。
むしろ、作品の設定としては面白い。
しかし、それが毎回続くとどうなるか。
主人公が世界を体験している時間より、主人公が世界について解説している時間のほうが長くなってしまう。
これでは、せっかくのエリコが「舞台」ではなく「解説のための教材」になってしまう。
そして、さらに怖いのが、
**文章が増えているのに、物語が進んでいない**
という状態だ。
AIに肉付けさせると、当然ながら文字数は増える。
情景描写も増える。
会話も増える。
主人公の心情も増える。
だから書いている本人としては、
「かなり内容が増えた」
という感覚になる。
しかし、読者からすると、
「この話を読んで何が変わったの?」
となる。
主人公が町を歩いた。
いろいろ説明を聞いた。
主人公が「なるほど」と納得した。
そして次の場面へ。
文字数は一万字ある。
でも、物語上の変化はほとんどない。
これは、かなり危険だ。
**文章が増えることと、物語が進むことは別だからだ。**
文章を短くしても、話が進まなければ離脱する。
会話を増やしても、内容が同じなら離脱する。
説明を分かりやすくしても、毎回同じ説明なら離脱する。
逆に、多少文章が重くても、
「この先どうなるんだ?」
と思わせるものがあれば、読者は読んでくれる。
私は「読者が離脱しない文章」を作ろうとしていた。
でも、そのために必要なのは、単純に文章を軽くすることではなかった。
必要だったのは、
**「この作品だから読みたい」と思わせるものを残したまま、読みにくい部分だけを整理することだった。**
私は、
**「読まれる文章」**
を作ろうとしていた。
でも、本当に必要だったのは、
**「この作品だから読みたい文章」**
だった。
カクヨムで読まれる文章にすることも、スマートフォンで読みやすくすることも、テンポを良くすることも間違いではない。
ただ、それを優先しすぎて、作品そのものの個性を削ってしまったら意味がない。
今回の読者が「非常に残念です」と書いたのは、おそらくそこなのだと思う。
そして、過去の話まで差し替えていたことも、考えさせられた。
作者にとっては「改稿」でも、昔から読んでいた読者にとっては違う。
自分が好きだった文章が、いつの間にか別の文章になっている。
「最初から読み直してみよう」と思ったのに、その最初の文章まで変わっていた。
それなら、
「昔は良かったのに」
と思うのも無理はない。
これは、かなり申し訳なかったと思う。
だからといって、AIを使うことをやめるつもりはない。
AIそのものは非常に便利だからだ。
誤字脱字を探してもらう。
重複表現を指摘してもらう。
設定の矛盾を確認する。
文章の分かりにくいところを指摘してもらう。
そういう使い方なら、これからも使っていきたい。
ただ、
**続きを書かせるためだけ、文章を増やすためだけ、読みやすくするためだけにAIを使うのではなく、作者の個性を活かした文章を磨くために使う。**
その方向へ、使い方を変える必要があると思っている。
AIに肉付けさせた文章を、そのまま採用するのではなく、自分で読む。
そして、
「これは本当に必要なのか?」
「これは自分が見せたいものなのか?」
「この文章を追加したことで、物語は進んだのか?」
と考える。
場合によっては、AIが一〇〇〇文字増やした文章を、三〇〇文字まで削る。
それくらいでいいのかもしれない。
AIは文章を増やすのが得意だ。
だからこそ、最後に削るのは作者の仕事なのだと思う。
そして何より、
「カクヨムで読まれる文章」
という言葉を、少し疑ってみることにした。
読みやすさは大切だ。
でも、読みやすいだけなら、似たような文章はいくらでも作れる。
AIを使えばなおさらだ。
だから、
「読みやすいけれど、どこかで見たことがある文章」
ではなく、
「多少重くても、この作者だから読める文章」
を目指したほうがいい。
最初の頃の文章が評価されたのなら、そこには何か理由があった。
今回の感想は、その理由を教えてくれたのかもしれない。
重厚さ。
情景。
知らないエリコを歩いている感覚。
作者自身が「これは何だろう」と考えながら世界を見ている感じ。
そういうものまで「読みにくいから」という理由で削ってはいけなかった。
今回のことを踏まえて、これからは「何を削るか」だけではなく、「何を残すか」も意識していきたい。
目指すのは、昔の文章へそのまま戻すことではない。
改稿によって失ってしまったものを探し出し、それを取り戻すことだ。
エリコの景色。
そこで暮らしている人々の姿。
主人公が初めて見るものに戸惑い、考える時間。
そうしたものを残したうえで、読みにくかった部分だけを整理する。
そして、これはエリコの話だけではないと思う。
これまで書いてきた遊郭の話、北条早雲などの歴史人物の話などにも、同じことが言える。
読者の頭の中に、その場所の景色が浮かぶ。
そこに人がいて、生活があって、その場の空気まで感じられる。
そういう「情景が浮かぶ文章」は、やはり大事なのだと思う。
文章を短くすることも大事だ。
読みやすくすることも大事だ。
でも、それは目的ではない。
読者に、その世界を見てもらうための手段なのだ。
だから今度は、ただ「読みやすい文章」を目指すのではなく、
**「この作品だから読みたい。この作者だから、この世界を見たい」**
と思ってもらえる文章を目指したい。
今回の感想をきっかけに、そこへもう一度立ち返って、差し替えてしまった部分を見直してみようと思う。
それにしても、AIを使うというのは、その塩梅が難しいものだ。
便利だからこそ、任せすぎれば自分の文章ではなくなってしまう。
だからこそ、これからはAIに何を書かせるかだけではなく、何を書かせないかも考えながら使っていきたい。




