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プロローグ-間の影-第9話「押出」

プロローグ-第9話「押出」

つながりかけた何かが影だけ残して消えたあとも、胸の奥のざらつきは静かに残っていた。ノートを閉じ、廊下のベンチにもたれかかる。背中に当たる木の感触が、いつもより薄い膜を一枚挟んだように遠い。

その膜の向こう側で、時間だけが先に進んでいるような気がした。

トイレに行っていた杉山が戻ってきて、ぼくの前に立った。

「おーい、行くぞ。腹減った」

顔を上げた瞬間、世界のどこかが“ずれた”という感覚だけが、はっきりと残っていることに気づいた。立ち上がると、廊下の光がいつもより白く見える。蛍光灯の色は同じなのに、光の届き方が違う。ほんのわずかに角度が変わったような、そんな微妙な違いが視界の端に引っかかる。

杉山が横に並ぶ。

「昼どうする?」

その声は、半歩後ろから聞こえた気がした。

胸の奥で何かが跳ねる。

「学食でいいよ」

返した自分の声も、少しだけ違って聞こえる。喉の奥で響くはずの音が、耳の外側で鳴っているような、不自然な距離感があった。

歩きながら、廊下の窓に映る自分を見る。そこにいるのは、いつものぼく。なのに、鏡の中の“ぼく”が、ほんのわずかに遅れて動いた。まばたきが合わない。

——気のせいだ。

そう思おうとする。だが、胸の奥のざらつきは消えない。

階段を下りる。足音がいつもより乾いて聞こえる。一段踏むたびに、世界がほんの少しだけ“押し出されている”ような感覚があった。自分の“いま”が、段差に合わせて横へずれていく。

押し出されている——その言葉が浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが走った。

一瞬、足の位置が分からなくなる。踏み外しそうになって、手すりに触れた。触れた感触が、遅れて指先に追いついてくる。

学食に着き、トレーを取り、列に並ぶ。前の学生の背中が、別の誰かのものに見えた。

肩幅も姿勢も同じなのに、違う。

——違う。

そう思った瞬間には、もう元に戻っていた。けれど“違ったほう”の残りだけが、胸の奥に沈んでいる。

席に座り、食事を始める。味はいつも通りだ。

だが、箸を持つ手が少しだけ“借り物”みたいだった。自分の手なのに、動かすたびにわずかな遅れがある。箸先が食べ物に触れる前に、触れたあとの感触だけが先に分かる。

杉山が言う。

「今日さ、なんか変じゃね?」

箸を止める。

「……何が?」

「いや、なんか……おまえの声、ちょっと違う気がして」

心臓が一拍遅れて跳ねた。

「気のせいだろ」

そう言いながら、自分の声の響きを確かめる。確かに少し違う。だが、どう違うのかは分からない。

杉山はそれ以上言わなかった。ぼくも言わなかった。

ただ、胸の奥で、“ぼくの位置がずれた”という感覚だけが、静かに、確実に広がっていった。言葉にしようとすると形を失うのに、体の奥でははっきりと居座っている。

食事を終えて席を立つとき、ぼくはふと、さっきのノートを思い出した。一本の線。その線の上の一点。

あれは何だったんだろう。

考えようとした瞬間、思考に“蓋”がされるような感覚があった。

——考えるな。

誰かにそう言われたような気がした。もちろん、誰も言っていない。

深く息を吸い、ゆっくり吐く。世界はいつも通りだ。そう思い込もうとする。

だが、胸の奥のざらつきは、もう“気のせい”では片づけられないところまで来ていた。

歩きながら、自分の“いま”が、ほんのわずかに横へ押し出されているような感覚を、どうしても振り払えなかった。

振り払えなかった。

——その“ずれ”は、もう戻らない気がした。


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