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プロローグ-間の影-8話「軸」

プロローグ-8話「軸」

昼前の空気は少し湿っていて、廊下を歩く学生たちの声が遠くで揺れていた。いつもと同じように教室へ入り、席に座り、ノートを開く。そこまでは、何の変哲もない日常の続きだった。

山下教授が教壇に立ち、講義が始まる。黒板にチョークが当たる音が、いつもよりわずかに柔らかく聞こえた。教授の声は普通に届いているし、めまいがするわけでもない。ただ、胸の奥でゆっくりと波が立ち上がるような感覚があった。空気の密度が、ほんの少しずつ変わっていく。

ぼくは深く息を吸った。

その瞬間、前の席に座る杉山の背中が、急に“そこにある”と強く意識に浮かび上がった。さっきまで普通に見えていたはずなのに、輪郭が一段階だけ鮮明になったような、そんな感覚だった。

講義は淡々と進んでいく。黒板には新しい図が描かれ、教授の説明が重なっていく。ぼくはノートに視線を落とした。そこには今日の講義内容がびっしり書かれている。書いたのは自分だ。字も癖も間違いない。なのに、内容をほとんど覚えていない。

ページの端を指で押さえながら、胸の奥の波が静まらないことに気づく。紙の白さ、ペンの重さ、机の木目――全部知っているのに、どこか噛み合っていない。世界の表面が、薄い膜一枚ぶんだけずれているような感覚が続いていた。

講義が終わって、学生たちが立ち上がる音、椅子の脚が床をこする音が、乾いたはずなのに少し鈍い。

杉山が振り返った。

その顔を見た瞬間、ぼくは自分でも驚くほど自然に口を開いていた。

「なあ、俺……なんか変?」

杉山は一瞬だけ目を細めた。

「変っていうか……さっきからぼーっとしてたぞ。大丈夫か?」

「分からない。今日だけ、なんか違うんだよ」

言葉にしてみると、その“違う”という感覚が胸の奥で形を持ったように思えた。

ただ、その形はどこかで見たことがあるような気もした。

まるで以前の感覚を、今日が薄く“トレース”しているみたいに。

ぼくはノートを閉じ、黒板を見た。教授の声は確かに聞こえていたはずなのに、内容はほとんど頭に残っていない。

違和感は、気づいたときにはもう始まっている。どこで始まったのかは分からない。

ただ一つだけ確かだった。

――今日だけ?

その問いが、胸の奥で静かに反響していた。

教室を出ると、廊下の空気がわずかに冷たく感じられた。学生たちの話し声が遠くで混ざり合い、階段のほうへ流れていく。そのざわめきの中を歩きながら、胸の奥では、さっきの違和感がまだ静かに波を打っていて、足を進めるたびにその揺れがわずかに強まっていくのが分かった。

――今日だけ?

そう思った瞬間、胸の奥で別の感触が動いた。今日だけじゃない。この揺れは、以前にも確かに経験している。ぼくは立ち止まり、手すりに軽く触れた。前にもあった。その言葉が、思考の表面に自然と浮かび上がる。

今日の違和感は、まったく新しいものではない。

今日を含めて三度目だ。

どれも似たような波の立ち上がり方で、胸の奥の温度がゆっくり変わっていくような感覚だった。

じゃあ、いつだった?

どんなときだった?

何がきっかけだった?

胸の奥で、何かがゆっくりと形を取り始めた。まるで、見えない線が一本、静かに伸びていくような感覚だった。思い返すと、あの日も今日も、違和感は講義の途中で高まり始めていた。そして、三度とも山下教授の講義で、杉山は右斜め前に座っていた。ぼくはその背中を“急に意識する”瞬間があった。

三回。たった三回。

それでも偶然と呼ぶには重なりすぎているが、確信と言えるほどの回数でもない。

その曖昧さが、逆に胸の奥の波を強くした。

ぼくは廊下のベンチに腰掛け、ノートを開いた。今日の講義内容を確認しようとしただけなのに、視界の端にある図が引っかかった。一本の線。左から右へ、まっすぐ伸びる白い線。

その瞬間、胸の奥が跳ねた。まるで心臓の裏側を指で軽く弾かれたような感覚。

――これ、前にも教授が話していた内容じゃないか?

ぼくは急いで以前のページをめくった。しかし、そこには何も書かれていない。線の図も、説明の痕跡も、どこにもない。なのに、記憶のどこかでは確かに“見た”と思っている。その確信だけが、妙に強かった。

視界がふっと揺れた。黒板の記憶の線が、重なった。一本、二本、三本……重なり合う線分が、時間の奥から浮かび上がるように揺れ、その重なりはまるで何かの“規則性”を示しているように見えた。線と線の間に、見えない軸が一本通っているような、そんな気配。

そして――つながった。

そう“感じた”。

胸の奥で、何かが一気にまとまり始めた。世界のずれ、講義の日、杉山の位置、逆デジャヴ、線。それらが一本の軸に吸い寄せられるように、急速に形を作りかけた。まるで、長い間忘れていた答えが、手の届くところまで浮かび上がってきたようだった。

――分かる。

そう思った。あと少しで、何かに触れられる。

だが、その瞬間、その感覚は消えた。まるで誰かにスイッチを切られたみたいに、跡形もなく。

残ったのは、静かな余韻だけだった。ぼくはノートを閉じ、深く息を吐いた。胸の奥に残ったのは、つながりかけた何かの“影”のようなものだけだった。

ただ、自分の“いま”がほんのわずかに押し出されたような感覚を抱えていた。


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