プロローグ-間の影-第7話「重像」
プロローグ-第7話「重像」
その日、山下教授の声が、教室の前のほうで落ち着いた調子で響いていた。
黒板に向かう背中も、チョークの動きも、いつも通りのはずだった。なのに、視界の奥で、別の“同じ場面”がゆっくり重なった。前の席に杉山が座っている。肩の線、背中の角度、ノートをめくる指の動き。どれも見慣れたものなのに、どこかで一度見たような、いや、これから見るはずの光景の“予告”みたいにも思えた。
過去なのか、未来なのか、判別がつかない。映像が、時間のどちら側から来ているのか分からなかった。
教授が黒板に線を引く。その瞬間、胸の奥で何かがふっと跳ねた。
白い線が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。一本は“今”の線で、もう一本は、少しだけ遅れて、あるいは少しだけ先に、同じ軌跡をなぞっているように見えた。
息を吸ったつもりなのに、吸った感覚が少し遅れて届いた。気づくと、教室のざわめきが戻っていた。
黒板の前にはもう教授の姿はなく、学生たちが立ち上がり始めていた。ページを閉じる音、椅子の脚が床をこする音。講義は終わっていた。
「北山?」
前の席から杉山が振り返った。その顔が、さっき見た“どちら側の映像”とも重なって、
一瞬だけ距離感がつかめなかった。
「……ん?」
「前にもこんなこと、なかったっけ?」
その言い方は軽かった。
けれど、胸の奥の刺が、わずかに深く沈んだ気がした。
「前にもこんなこと、・・・なかったっけ?」
もう一度、杉山が振り返ったまま言った。その声は確かに杉山のものだ。聞き慣れているはずなのに、ほんのわずかに遠い。録音を通したみたいに、薄い膜が一枚挟まっている感じがした。
「……さあ」
そう返した自分の声もまた、少し違って聞こえた。高さや大きさではなく、「ここから出ている」という感覚が曖昧だった。
杉山はスマホを机に置き、こちらをじっと見る。
「なんか眠そうだな」
言い方はいつも通りなのに、表情と声の位置がほんの少し噛み合っていない。笑っているのに、笑いが遅れてくるような、そんなずれ方だった。
「別に。普通だよ」
そう答えながら、“普通”という言葉がどこにも当てはまっていない気がした。さっきの講義の途中から、意識がどこか曖昧だった気がする。
何を聞いて、どこを聞き逃したのか、自分でもはっきりしない。その確かめるような気持ちで、ぼくはノートを開いた。講義のメモが目に入る。見覚えのある字。
けれど、線の流れが微妙に違う。
自分の癖に似ているのに、完全には一致していない。教室全体を見渡す。机の並び、窓の位置、黒板の大きさ。全部正しい。間違っているところは一つもない。
なのに、どこか別の場所の教室をそっくり再現したみたいに見えた。
杉山がペンを机に置く音がした。その音に、わずかに違和感が混じる。
乾いた音のはずなのに、少しだけ鈍い。
「ほんとに大丈夫か?」
もう一度聞かれる。
「……ああ」答える。
やり取り自体は何もおかしくない。いつもの会話だ。
けれど、その「いつも」という感覚が、どこにも根を下ろしていない。記憶の中の“いつも”と、目の前の“今”が、ぴったり重ならない。
ぼくはノートに視線を落とした。ページの余白がやけに広く見える。何かを書こうとしてペンを持つが、何を書けばいいのか分からない。
違和感は小さい。誰かに説明できるほどのものじゃない。指摘すれば、きっと全部「気のせい」で片づく。
それでも、消えない。ほんのわずかな誤差が、世界の全部に均等に広がっている。そんな感覚に支配されペン先を紙に当てたまま、しばらく動けなかった。何も起きていないはずなのに、どこにも安心できる場所がない。この教室も、この席も、この時間も。全部、正しいはずなのに、言い表せない分だけ少し違っている。
その「少し」が、どこから来ているのかだけが、どうしても分からなかった。




