プロローグ-間の影-第6話「残響」
プロローグ-第6話「残響」
昼休みの学食は、ざわざわしているわりに落ち着いていた。
窓際の席にトレーを置く。
テーブルの木目が、こんなに“細かったけ?”ふとそう思ったが、どんな模様だったか思い出せず、スープの湯気に視線を移した。
ここ数回の講義では、杉山の姿を見ていなかった。
席も離れているし、時間割もずれているから、顔を合わせないまま何日かが過ぎていた。
パンをちぎってスープに浸したところで、影が差した。
「おー、いた」
顔を上げると、杉山がトレーを片手に立っていた。
ひょっこり、という言葉がそのまま当てはまるような現れ方だった。
「ここいい?」
「いいよ」
杉山は向かいに腰を下ろした。
そのとき、杉山の顔が鏡を通したように見えたが、杉山に声を掛けられ思考が止まった。
「でさ、今日の山下の講義、どうだった?」
「どうだったって?」
「いや、寝坊してさ。出られなかったんだよ。ノート貸してくれって言おうと思ったけど、講義中は見つけられなかったし。内容だけでも教えてくれよ」
その軽い調子は、いつもの杉山だった。
ぼくはスープを一口飲んでから、ゆっくり話し始めた。
「黒板に一本の線を描いたんだ。人生を一本の線で表すってやつ」
「線?」
「うん。左が“生”で、右が“死”。で、“今”はそのどこか一点にあるって話」
杉山は「へえ」と言いながらカレーを口に運ぶ。
そのトレーの色が、いつもより半トーンだけ明るく見えた。
光の加減だろうと思った。
「でさ、教授が“昨日”“今日”“明日”って丸を打って、なんでそれを全部“自分”だと思えるのかって話をしてた」
「なんでって……まあ、自分だからじゃね?」
「まあ、そうなんだけど」
ぼくはトレーの端を指でなぞった。
「でもさ、線って、最初から“終点”まで描かれてるんだよな。未来の部分も、もう線としてそこにある」
杉山はスプーンを止めて、少しだけ眉を上げた。
「未来って、まだ分かんないじゃん?」
「そう。分かんないはずなんだけど、図の上ではもう“ある”んだよ。生から死まで、一本でつながってる」
言葉にしてみると、喉の奥が少し乾いた。
「ってことはさ。ぼくの“今”って、この線の上を移動してるだけで、その先も、本当はもう描かれてるんじゃないのかなって」
杉山はペットボトルのふたをいじりながら、軽く息を吐いた。
「決まってるって言われると変な感じだけど……まあ、図だしな。ああいうのって、分かりやすくするために描いてるだけだろ」
その言い方も、いつもの杉山だった。
ぼくは視線を落とす。
ノートの余白に書いた一文字が、頭の中に浮かんだ。
——針。
意味はまだない。ただ、その形だけが、なぜか離れなかった。
その日の講義のことは、胸の奥に妙にはっきり残っていた。
黒板に描かれた一本の線。左に「生」、右に「死」。そのあいだをまっすぐ貫く白い軌跡。
粉の落ちる音まで、まだ耳の奥に残っていた。
でも教室を出てからの時間は、特に変わったところもなかった。
階段を上がり、電車に乗り、家に帰る。
どれも、いつもの動きだった。
ただ、ある瞬間、胸の奥でふっと何かが跳ねた。
——逆デジャヴ。
その言葉が、理由もなく浮かんだ。
ずいぶん前に一度だけ感じた、あの“逆向きの手触り”が、講義の線と細くつながったような気がした。
触れようとするとすぐに逃げるのに、奥のほうでは小さな刺みたいに残っている。
そんな種類の感覚だった。
ふと視線を上げると、駅の壁のポスターが、見覚えのないデザインに変わっていた。
でも、前からあったような気もして、そのまま視線を戻した。
日常の動作は、何も変わらない。
ページをめくり、講義の声を聞き、昼を食べ、電車に乗り、家に帰る。
それなのに、胸の奥のその刺だけは、時間が進んでも抜けないままだった。




