プロローグ-間の影-第5話「兆し」
プロローグ-第5話「兆し」
大学へ向かう朝は、いつもと同じだった。電車の揺れも、吊り革の高さも、アナウンスの声も、特に変わったところはない。駅を出てから教室へ向かうまでの道も、見慣れた景色が続いていた。
ただ、足元の影がほんの一瞬だけ重なったように見えたが、あれ以来何も変わったこともなく、気のせいだと思うことにした。
時間割を確認しようとスマホを開く。今日の2限の欄に、見慣れた名前があった。
——2限、山下教授?
その文字列を見た瞬間、胸の奥で小さな波紋が広がった。理由は特にない。ただ、前回の講義の残り香のようなものが、まだどこかに漂っている気がした。
教室に入ると、ざわめきがゆっくりと薄れていくところだった。席に着き、ノートを開く。表紙の手触りも、紙の白さも、いつも通りだ。
なのに、ページをめくる指先だけが、ほんのわずかに遅れてついてくるように感じられた。
前の方で、山下教授が黒板の前に立った。
チョークを一本手に取り、軽く指先で転がす。その白い棒が、教室の空気をわずかに切り裂くように見えた。
そして講義が始まった。
教授が黒板を大きく指さした。
「黒板全体が時間だと思ってください」
右上に「時間」と書き込み、中央に一本の直線を引く。
その線が引かれる瞬間、胸の奥がひやりとした。前回の“揺れ”の残りが、線の上をかすめたような感覚。
「これが一人の人間の一生。生まれてから死ぬまでを一本の線で表したものです」
左端に「生」、右端に「死」。白い粉が黒板の下にぱらぱらと落ちる。
その落ち方が、ほんの一瞬だけ逆再生されたように見えたが、瞬きをしたら消えた。
「きみたちの“いま”は、この線の上のどこか一点にあります」
教授は直線の途中をチョークで軽くつついた。
その“一点”という言い方が、胸の奥に引っかかった。あの日の“位置のずれた自分”が、ふっと頭をよぎる。
「では、問いです」
教授は線の上に小さな丸を三つ打ち、「昨日」「今日」「明日」と書き添える。
「ここにいる“きのうの自分”と“きょうの自分”と“あしたの自分”。時間的には別の地点にいるのに、なぜきみたちは、それらを『一つながりの自分』だと感じるのでしょうか」
シャーペンの音が教室に広がる。
ぼくも手を動かしながら、薄れつつある「何か忘れてきた感じ」を探っていた。
その“忘れた何か”が、線のどこかに置き去りにされているような気がした。
「この問題を“自己同一性”の問題と呼びます」
黒板の隅にその言葉が書かれる。
その文字が、ほんの一瞬だけ二重にぶれた。あの日の夜の“残像”と同じ温度だった。
「今日の目的は、この一本の線と、このいくつかの点だけを前提にして、『同じ自分』という感覚をどこまで説明できるかを考えることです」
教授の声はいつも通り落ち着いている。
なのに、胸の奥には、言葉にならないざらつきが小さく引っかかっていた。
ぼくはノートに図を写し、ページの端に小さく書き足した。
「時間=黒板
人生=一本の線
“いま”=線上の一点」
そこまで書いたところで、ペン先が自然に止まる。
線の上を、細い何かがゆっくり動いていくイメージが浮かんだ。
その“何か”が通ったあとだけ、紙の上の線がわずかに震えて見えた。
名前をつけてはいけない気がした。
けれど、つけずにはいられなかった。
——針。
そう書いて、丸で囲んだ。
その瞬間、教室の空気がほんのわずかに沈んだ気がした。
チャイムの音が遠くから聞こえた。




