表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

プロローグ-間の影-第4話「空洞」

プロローグ-第4話「空洞」

そうこう考えているうちに、降車駅のアナウンスが流れた。

思考のどこか遠くのほうで声を聞きながら、反射的に立ち上がる。体のほうが先に動いて、意識が数秒遅れてついてくる。

つり革から手を離した瞬間、指先に残っていた感触だけが、ほんのわずかに遅れて消えた気がした。

ホームに降り立つと、空気が少しひんやりしていた。

少しだけ温度が下がっただけの、ただの空気のはずなのに、肌に触れた瞬間だけ“前にも触れた温度”のように感じられた。

それがいつなのかは分からない。ただ、「さっきではないどこか」の記憶に触れたような感覚だけが残る。

改札へ向かう足取りはいつも通りだった。

それなのに、歩幅が“昨日の帰り道の歩幅”と重なったような感覚が、一瞬だけ胸の奥をかすめた。

同じ歩き方をしている、というより——

「一度歩いた道を、なぞっている」ような気配だった。

理由は分からない。ただ、そう感じただけだ。

夢の内容を思い出そうとしても、指の間から水がこぼれるみたいに、手応えがない。

思い出せそうで思い出せない、その曖昧さだけが残る。そんな感じだ。

思い出そうとした“跡”だけが、ぼんやりと頭の中に残っている。

改札に近づきながら、ぼくはひとまず、一連の出来事に一時的なラベルを貼ることにした。

——保留。

デジャヴでも、予知でも、脳のバグでもないかもしれない何か。

けれど今のぼくには、名前を与えるには材料が足りない。

「みんな気のせいだ」

そう自分に言い聞かせて、ICカードを改札機にタッチした。

軽い電子音がして、ゲートが開く。

その日常の音にまぎれて、レコードの針が、ほんのわずかに軋んだような気がした。

昨日のどこかで聞いたような、しかし思い出せない“位置”の軋みだった。

一瞬だけ、音が「今」ではない場所から聞こえたようにも思えたが、すぐに気のせいだと打ち消した。

教室に入ると、まだ半分くらいしか席が埋まっていなかった。

窓際のいつもの席に鞄を置き、いつものようにノートを取り出す。

今日の講義タイトルを書くスペースを上に空けて、いつものように日付を書いた。

数字を並べている途中で、ペン先がほんの少しだけ止まった。

——今日って、本当に今日で合ってたっけ。

そう思ったのは一瞬で、すぐに「まあ合ってるだろ」と思い直す。

書いたばかりの年月日が、ほんの一瞬だけ見慣れない記号のように見えただけだ。

桁の並びが正しいはずなのに、どこか「順番を間違えている」ような違和感が残った。

ページの端には、前回の講義で書いたメモが残っている。

自分の字のはずなのに、「書いた記憶のない字」

線の癖も、文字の崩し方も確かに自分のものなのに、

その一行だけ、そこに至るまでの時間がまるごと抜け落ちているように感じた。

でも、寝不足のときはよくあることだ。

ぼくはノートの上に置いた自分の手を眺めた。

駅を出るころには、昨日のこともほとんど気にしていなかったはずだ。

今日も普通に大学に来て、普通に席に座って、普通にノートを開いている。それだけのことだ。

それ以外の何かを考える理由なんて、本来はない。

それなのに、ページをめくった瞬間だけ、胸の奥に小さな空洞ができたような気がした。

そこにあったはずの何かが、静かに抜け落ちている。

思い出そうとすると、その部分だけが滑るように手から外れていく。

何を忘れたのかは分からない。

ただ、「何かを忘れた気がする」という感覚だけが、薄く残った。

そしてその“何か”は、思い出してはいけないものだったような気さえした。

「……なんだっけな」

小さくつぶやき、ページの隅に線を引く。

意味のない線が紙の上に伸びていく。

一本、もう一本と線を重ねていくうちに、その空洞の縁が少しずつぼやけていった。

線を引くたびに、日常のほうがじわじわと戻ってくる。

前の方で教授が入ってきて、出席を取る声が教室に広がる。

ざわめきが静まっていくのに合わせて、ぼくの中の違和感も、いつもの生活のざらつきの中に溶けていった。

結局、何をそんなに気にしていたのか思い出せないまま。

ただ、どこかで針が一瞬だけ跳ねたような音がした気がしたが、それもすぐに日常の音に紛れ、薄れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ