プロローグ-間の影-第4話「空洞」
プロローグ-第4話「空洞」
そうこう考えているうちに、降車駅のアナウンスが流れた。
思考のどこか遠くのほうで声を聞きながら、反射的に立ち上がる。体のほうが先に動いて、意識が数秒遅れてついてくる。
つり革から手を離した瞬間、指先に残っていた感触だけが、ほんのわずかに遅れて消えた気がした。
ホームに降り立つと、空気が少しひんやりしていた。
少しだけ温度が下がっただけの、ただの空気のはずなのに、肌に触れた瞬間だけ“前にも触れた温度”のように感じられた。
それがいつなのかは分からない。ただ、「さっきではないどこか」の記憶に触れたような感覚だけが残る。
改札へ向かう足取りはいつも通りだった。
それなのに、歩幅が“昨日の帰り道の歩幅”と重なったような感覚が、一瞬だけ胸の奥をかすめた。
同じ歩き方をしている、というより——
「一度歩いた道を、なぞっている」ような気配だった。
理由は分からない。ただ、そう感じただけだ。
夢の内容を思い出そうとしても、指の間から水がこぼれるみたいに、手応えがない。
思い出せそうで思い出せない、その曖昧さだけが残る。そんな感じだ。
思い出そうとした“跡”だけが、ぼんやりと頭の中に残っている。
改札に近づきながら、ぼくはひとまず、一連の出来事に一時的なラベルを貼ることにした。
——保留。
デジャヴでも、予知でも、脳のバグでもないかもしれない何か。
けれど今のぼくには、名前を与えるには材料が足りない。
「みんな気のせいだ」
そう自分に言い聞かせて、ICカードを改札機にタッチした。
軽い電子音がして、ゲートが開く。
その日常の音にまぎれて、レコードの針が、ほんのわずかに軋んだような気がした。
昨日のどこかで聞いたような、しかし思い出せない“位置”の軋みだった。
一瞬だけ、音が「今」ではない場所から聞こえたようにも思えたが、すぐに気のせいだと打ち消した。
教室に入ると、まだ半分くらいしか席が埋まっていなかった。
窓際のいつもの席に鞄を置き、いつものようにノートを取り出す。
今日の講義タイトルを書くスペースを上に空けて、いつものように日付を書いた。
数字を並べている途中で、ペン先がほんの少しだけ止まった。
——今日って、本当に今日で合ってたっけ。
そう思ったのは一瞬で、すぐに「まあ合ってるだろ」と思い直す。
書いたばかりの年月日が、ほんの一瞬だけ見慣れない記号のように見えただけだ。
桁の並びが正しいはずなのに、どこか「順番を間違えている」ような違和感が残った。
ページの端には、前回の講義で書いたメモが残っている。
自分の字のはずなのに、「書いた記憶のない字」
線の癖も、文字の崩し方も確かに自分のものなのに、
その一行だけ、そこに至るまでの時間がまるごと抜け落ちているように感じた。
でも、寝不足のときはよくあることだ。
ぼくはノートの上に置いた自分の手を眺めた。
駅を出るころには、昨日のこともほとんど気にしていなかったはずだ。
今日も普通に大学に来て、普通に席に座って、普通にノートを開いている。それだけのことだ。
それ以外の何かを考える理由なんて、本来はない。
それなのに、ページをめくった瞬間だけ、胸の奥に小さな空洞ができたような気がした。
そこにあったはずの何かが、静かに抜け落ちている。
思い出そうとすると、その部分だけが滑るように手から外れていく。
何を忘れたのかは分からない。
ただ、「何かを忘れた気がする」という感覚だけが、薄く残った。
そしてその“何か”は、思い出してはいけないものだったような気さえした。
「……なんだっけな」
小さくつぶやき、ページの隅に線を引く。
意味のない線が紙の上に伸びていく。
一本、もう一本と線を重ねていくうちに、その空洞の縁が少しずつぼやけていった。
線を引くたびに、日常のほうがじわじわと戻ってくる。
前の方で教授が入ってきて、出席を取る声が教室に広がる。
ざわめきが静まっていくのに合わせて、ぼくの中の違和感も、いつもの生活のざらつきの中に溶けていった。
結局、何をそんなに気にしていたのか思い出せないまま。
ただ、どこかで針が一瞬だけ跳ねたような音がした気がしたが、それもすぐに日常の音に紛れ、薄れていった。




