プロローグ-間の影-3話「ほつれ」
プロローグ-3話「ほつれ」
デジャヴという言葉を当てはめてしまえば、それで済むのかもしれない。
「前にも見た気がする光景」。
心理学の本にも、哲学の本にも、それっぽい説明はいくらでも載っている。
昨日の夜のあれも、そういう分類に押し込んでしまえば、きっと話は簡単になる。
けれど、どうにもその枠に収まらない気がしていた。
普通、デジャヴは“起こった瞬間”に追いついてくる。
会話の途中でふいに「あれ、この流れ知ってる」と思ったり、角を曲がった先の風景を見てから「前にもここを歩いた気がする」と思ったり。
つまり、出来事のあとに名前が追いついてくる。
でも昨日のぼくは、まだ牛乳パックにも触っていないのに、「こぼす」場面を知っていた。
あれは、起こった出来事にラベルを貼る感覚じゃなかった。
これから起こる出来事のほうが、先にこちらへ寄ってきたような、そんな妙な順番のズレだった。
ほんの一瞬のことなのに、思い返すと、そこだけ時間の縫い目がほつれていたように思える。
そのほつれ目に指先が触れたような、冷たい感触がまだ残っている。
「じゃあ何だよ」
窓の外の景色に問いかける。
もちろん返事なんて返ってこない。
ただ、ガラス越しの景色が、いつもよりわずかに“平ら”に見えた。
奥行きが一段だけ削られたような、そんな違和感。
まるで、世界の厚みがほんの少しだけ薄くなったみたいだった。
予知夢、みたいなものだろうか。
その言葉を頭に浮かべてみて、すぐに苦笑する。
二十歳の大学生が真顔で「予知夢がさ」とか言い出したら、友達は確実に距離を取る。
それに、“未来を見た”という感じとも違う。
もっと雑で、もっと曖昧で、もっと一瞬だった。
時間の向きがふっと曖昧になって、前から来るはずの出来事と、後ろから響いてくる記憶が、ほんの一瞬だけ重なったような。
その重なりは、説明しようとすると指の間からこぼれ落ちる砂みたいに、形を保ってくれない。
単なる脳のノイズとして処理してしまうのか。
それとも、「世界のほうが一瞬だけ巻き戻って、同じ溝を二回なぞった」とでも考えるのか。
そんな馬鹿げた考えを浮かべた、そのときだった。
視界の端で、違和感が走る。
レールの継ぎ目の振動も、吊り革の揺れも、すべて連続している。
なのに、窓の外の景色だけが——ほんの一瞬だけ、逆に滑った。
流れていくはずの建物の列が、一コマぶんだけ、元の位置へ戻る。
戻って、何事もなかったように、また前へ流れ始める。
一瞬だった。
瞬きをしたかどうかも分からないほどの、短い時間。
だが、確かに見た。
さっき通り過ぎたはずの電柱が、もう一度、同じ角度で視界を横切った。
「……は?」
声が漏れる。
周囲は変わらない。
スマホを見ている人、うつむいている人、眠っている人。
誰一人として、顔を上げない。
今のを見たのは、ぼくだけだった。
心臓が一拍、遅れて強く鳴る。
さっき、自分で考えたばかりのことが、そのまま現実になったような気がした。
——世界が巻き戻った。
そんなはずはない。
そう否定しようとする思考が、うまく噛み合わない。
言葉だけが浮かんで、意味が追いついてこない。
景色も、もう普通に流れている。
さっきの一瞬だけが、そこから切り離されたみたいに、現実の外側に取り残されている。
胸の奥のざらつきが、一段深くなる。
そのざらつきが沈んでいく途中で、スマホが小さく震えた。
杉山からの短いメッセージ。
返信しようとして、指を画面に触れようとした瞬間、吹き出しの横に、小さく“既読”の文字が見えた気がした。
ぼくはまだ何も返していないのに。
まばたきしたら、その文字は消えていた。
未読のまま、白い丸がついている。
さっきの“既読”はどこにも残っていない。
でも、胸の奥だけが、一度読まれたあとの空気を覚えていた。
誰かが先に触れたあとの、わずかな温度の違い。
でもこれも全て「気のせいだ」と、スマホを閉じようとした、その瞬間だった。
見覚えのある文体のメッセージが、いちばん下にあった。
確かに、そこに。
短い言い回し。
語尾の癖。
思い出すまでもない、あの調子。
「……いや、そんなわけないだろ」
そう思った瞬間、
その行は跡形もなく消えていた。
そこには何もなかった。
最初から存在しなかったみたいに。
なのに、“なかった”ほうだけが、胸の奥にじんわりと残った。
ぼくは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこに映っているのは確かに自分のはずなのに、ほんのわずかだけ、焦点が合っていない気がした。
まるで、今ここにいる自分と、どこか別の位置にいる自分とが、ぴったり重なりきれていないみたいに。
電車は、変わらず前へ進んでいる。
景色も、音も、人の気配も、すべていつも通りだった。
——そのはずだった。
窓の外、見慣れているはずの看板に目が留まる。
何気なく視線を流しかけて、引っかかった。
「……違う」
思わず、声が漏れる。
そこに書かれていた店の名前が、少しだけ違っていた。
見覚えのある並び。
知っているはずの文字。
なのに、一文字だけ、記憶にない形をしている。
間違い探しみたいに、そこだけが浮いて見える。
目を凝らす。
次の瞬間、電車が揺れて、視界が流れた。
——記憶にないはずのその一文字だけが、やけに“正しかった”気がした。
スマホで店の名前を検索する。
今さっき見た——あの“知らないはずの文字”。
検索結果が、一瞬で埋まった。
地図も、公式サイトも、口コミも、全部その表記で揃っている。
「……こっちが、正しいのか」
小さく息を吐く。
自分の覚え違い。
ただそれだけの話。
そう結論づけたはずなのに。
画面をスクロールする指が、途中で止まる。
店のロゴ画像。
昨日までの記憶と、うまく重ならない。
「……いや」
思考を打ち消すように、スマホの画面を閉じる。
ただの気のせいだ。
そうでなければ、辻褄が合わない。
そう納得したはずの答えが、胸の奥でうまく沈んでいかなかった。
むしろ、その違和感だけが、さっきよりはっきりしていた。
——間違っているのが自分の方だとは、どうしても思えなかった。




