プロローグ-間の影-第2話「ずれ」
◆ プロローグ-第2話「ずれ」
通学電車の窓に映る自分の顔は、いつも通りだった。
寝不足気味で、少しむくんでいて、特に変わったところはない。
目の下の影も、髪の跳ね方も、見慣れているはずの「今日の自分」だった。
昨日のことも、ほとんど気にしていなかった。
コップを落としたくらい、よくある話だ。
あの瞬間の妙な感覚も、寝不足のせいだと言われれば納得できる程度のものだった。
実際、昨夜はほとんど眠れていなかった気がする。
何度か目が覚めたような、そもそも眠っていなかったような、曖昧な感触だけが残っている。
車内が小さく揺れる。
吊り革が、わずかに軋む。
その揺れも、いつもの朝の揺れだと思った。
――カン。
足元で、小さな硬い音が鳴った。
反射的に視線を落とす。
床には何もない。
靴先の影が揺れているだけだった。
一拍遅れて、
視界の端で誰かのスマホが手から滑り落ちた。
同じ音が、もう一度鳴る。
今度は、確かにそこから聞こえた。
わずかに遅れて、周囲の空気がそれに気づく。
誰かが小さく息を呑み、持ち主らしい手が慌てて伸びる。
気のせいだ、とすぐに片づける。
偶然だ。たまたま、タイミングが重なっただけだ。
そう思ったはずなのに、
胸の奥に小さな波紋が広がった。
その波紋が、昨日の夜の“あれ”と同じ位置に触れた気がした。
続けて流れた車内アナウンスの最初の一言が、
耳に届く前に内容ごと分かってしまったような気がした。
単語だけじゃない。
語尾の調子まで、丸ごと。
だが、毎日同じ電車に乗っていれば、アナウンスの順番くらい自然と覚えるものだ。
そう思えば、特に不思議でもない。
そういうことにしておけば、問題はない。
吊り革を握り直す。
その高さが、昨日よりほんの少しだけ高い気がした。
指の関節の角度が、わずかに違う。
腕の伸び具合が、ほんの少しだけ余る。
気のせいだろう。
昨日のぼくが少し背筋を伸ばしていただけかもしれない。
「そう思うことにした」
だが、手のひらに残る“昨日の高さ”の感触が、
妙に生々しく残っていた。
皮膚の内側に、もう一つの手の位置が重なっているみたいに。
「この場面、前にも――」
そこまで考えて、思考がふっと止まった。
前にも、というなら、いつのことだろう。
昨日かもしれないし、もっと前かもしれない。
あるいは、さっきのことかもしれない。
ただの気のせいだろう、と自分に言い聞かせる。
昨日の“デジャヴ?”という呟きが、喉の奥で小さく反響したが、
それもすぐに消えた。
スマホの画面には、今日の日付と曜日が表示されている。
疑いようもなく「今日」だ。
なのに、その数字の並びが、ほんの少しだけ借り物みたいに見えた。
自分のものじゃない「今日」を、表面だけなぞっているような。
理由は分からない。ただ、そう感じただけだ。
胸の奥には、別の「今日」の手触りが、かすかに残っている気がした。
そこでは、コップを落とした角度が少し違っていて、
電車の揺れも少し違っていて、
ぼくが呟いた言葉も少し違っていたような気がする。
ほんの数センチ、ほんの数秒、
何かがずれているだけの「今日」。
でも、それも気のせいだろう。
そう思えば、そう思える程度の曖昧さだった。
電車がトンネルに入る。
窓ガラスに映る自分の輪郭が、ほんの一瞬だけ遅れて揺れた。
――遅れて、揺れた。
さっきの音と同じ種類の、わずかな“先行”と“遅延”。
車内の照明が反射しただけだ、と片づける。
そう片づければ、何でも説明できる。
ただ、揺れた“あと”の輪郭が、
ほんのわずかに別の位置に残っていた気がした。
瞬きしても、消えない。
その“残り”が、昨日の夜の残像と同じ温度をしていた。
まるで、一度だけ針が跳ねて、
隣の溝をほんの数秒ぶんなぞってしまったレコードを、
少し遅れて聴かされているような感じ。
その比喩が頭に浮かんだ瞬間、
胸の奥がひやりとした。
昨日の夜、同じような“跳ね”を感じた気がしたから。
でも、電車はいつも通りの速度で走っていた。
ぼくも、いつも通り大学へ向かっていた。
周囲の会話も、吊り革の軋みも、
すべてが「正常」の範囲に収まっている。
ただ、“いつも通り”という言葉だけが、
空いた席に深く腰掛けたぼくの胸の奥でわずかに浮いていた。
浮いたまま、どこにも着地しないまま、
そのまま揺れていた。
その“いつも”が、どれのことなのか分からないまま。
――カン。
さっきと同じ音が、今度はどこからも聞こえなかった。
音の“記憶”だけが、遅れてそこに残っているみたいに。
「デジャヴ」という言葉だけが、
少し遅れて、胸の奥でこだました。




