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プロローグ-間の影-第1話「揺れ」

◆ プロローグ-第1話「揺れ」

——そこに、ぼくがいた。

キッチンの壁。

何もないはずの場所に、もう一人の“ぼく”が立っていた。

同じ姿勢で、同じように流しに手をつき、こちらを見ている。

視線が合った、気がした。

ただ、ひとつだけ違う。

ほんのわずかに——位置がずれていた。

輪郭が、空気の上で少しだけ滑っているように、現実にきちんと固定されていない。

次の瞬間、消えた。

音もなく、痕跡も残さず、最初から何もなかったかのように。

「……は?」

声が出る。

だがその声は、喉ではなく、ほんの少し外側で鳴っているように聞こえた。

耳の奥ではなく、空気の表面で反射しているような位置。

胸の奥に、冷たいざらつきが残る。

見間違いじゃない。

残像でもない。

——重なった。

そう理解した瞬間、背中を冷たいものがゆっくりとなぞった。

皮膚の上ではなく、内側を触られているような感触。

息が、浅くなる。

そのとき、不意に思い出す。

今日、最初の“ズレ”は、もっと些細なものだった。

山下教授の講義が終わったとき。

黒板の前で、教授がチョークを置いた。

その何でもない動作が、ほんの一瞬だけ二重に見えた。

残像ではない。

“置いた後の動き”が、わずかに先に重なっていた。

時間の順番が、一瞬だけ入れ替わったような感覚。

まばたきをしたときには元に戻っていたが、その違和感だけが、胸の奥に引っかかった。

前の席の杉山が椅子を引く。

ギィ、という音が、動きよりもわずかに遅れて耳に届く。

距離の問題じゃない。

近いとか遠いとか、そういう話じゃなくて——“ずれている”。

「北宮、行くぞ」

杉山が半身だけ振り返る。

その口の動きと、声が届くタイミングが、ほんの一拍だけ合っていない。

「……ああ」

返した自分の声もまた、喉の中ではなく、少し外側で鳴っていた。

誰かの声を、少し遅れてなぞっているような感覚。

立ち上がる。

足の裏に伝わる床の感触が、踏みしめてから遅れてやってくる。

触れた、という認識だけが、あとから追いかけてくる。

視界も同じだった。

世界が、ほんのわずかに遅れてついてくる。

めまいとは違う。

もっと緩やかで、逃げ場のない遅延。

すべてが「気のせい」で片付けられる程度のズレ。

だからこそ、否定しきれない。

その薄いざらつきは、教室を出ても消えなかった。

階段を下り、校門を抜け、電車に乗る。

揺れが身体に伝わる。

その揺れは、いつもより“丸い”。

角が取れたような、現実の手応えがぼやけている。

吊り革を握る。

ほんの少しだけ高い気がする。

だが確かめる術はない。

すべてが曖昧で、すべてが確定しない。

それでも、違和感だけは消えない。

ずっと、胸の奥に残り続けている。

キッチンに立ち、コップを手に取る。

冷蔵庫のドアに手をかけた、その瞬間。

胸の奥に、言葉よりも先に“感覚”が落ちてくる。

——このあと、落とす。

理由はない。

ただ、そう“知っていた”。

白い飛沫が散る軌道。

破片が跳ねる位置。

床に広がる形。

そのすべてが、

現実より先に流れ込んでくる。

おかしい、と考えるより先に——手から力が抜けた。

乾いた音が床に響く。

その音が届くより一瞬早く、“届いた後の感覚”だけが胸に落ちてくる。

ワンテンポ遅れて、白い液体が広がっていく。

見た通りに。

しゃがみ込み、タオルに手を伸ばし、破片を見る。

ほとんどが一致していた。

飛び散り方も、跳ねた位置も、角度も。

だが——ただひとつだけ。

ひとつだけ、右に転がるはずの小さな欠片が、なぜか左側、流しの近くに落ちている。

完全一致ではないほんのわずかな差。

その一点のズレが、胸の奥に冷たい線を引いた。

「……デジャヴ」

口に出した声が、また外側で鳴る。

違う。

これは、そんな軽いものじゃない。

予測でもない、偶然でもない。

——知っていた。

そうとしか言いようがない。

そして今。

壁に“もう一人のぼく”が立っていた。

静まり返ったキッチンで、

ぼくはしばらく動けなかった。

冷蔵庫の低い駆動音だけが、遅れて耳に届く。

時間が、ほんのわずかにずれて流れている。

その中で、不意に思う。

——また来る。

そう思った瞬間、喉がわずかに詰まった。

理由は分からない。

だが、来ることだけは分かる。

確信だけが、現実より半歩先を歩いている。

片付けを終え、シャワーを浴び、ベッドに横になる。

眠気はすぐにやってきた。

目を閉じて意識が沈む直前、今日の光景が浮かんだ。

教授の手、杉山の背中、白い飛沫、飛び散るガラス。

そして——壁の“ぼく”。

どれもが、ほんの少しだけ遠い。

翌朝、目が覚めたとき、世界は“普通”に戻っていた。

少なくとも、そう思えた。

ただ、胸の奥のざらつきだけは、まだ沈んでいなかった。

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