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プロローグ-間の影-第10話「侵入」

プロローグ-第10話「侵入」

学食を出て廊下に戻ったとき、さっきまでの会話や足音の記憶が、ところどころ薄い膜をかぶせられたように曖昧になっていた。

歩いているはずなのに、足が地面を踏む感覚が半拍遅れて届き、自分の身体を動かしているのが“ぼく”ではなく、どこか別の場所から操作しているような奇妙な距離があった。

その距離が、歩くたびにじわじわと広がっていく。

外に出ると、昼の光が広がっていた。晴れているのに、光がどこか平面的で、影の輪郭も薄く、世界全体が透明な膜を一枚かぶせられたように、わずかに遠く感じられる。

空気の粒が、いつもより均質すぎる。

深呼吸しても、肺の奥に届くまでの“道のり”が、ほんの少しだけ長い。

杉山が横で言った。

「午後どうする? 図書館行く?」

その声が、また少しだけ遠かった。距離というより、“位置”が違う。さっきよりも、そして昨日よりも、半歩だけずれているように聞こえる。

声の“発生源”が、身体のどこにも結びつかない。

「……ああ、行くよ」

返事をしながら、自分の声の響きがまた変わっていることに気づく。喉の奥から出ているはずの音が、耳の外側で鳴っているような、スピーカー越しの声を聞いているような感覚だった。

声が自分のものではなく、どこか別の“ぼく”の声を借りているような。

歩き出した瞬間、視界の端で何かが揺れた。反射的に振り返ると、そこにはただの校舎の壁があるだけだったが、その壁がほんの一瞬だけ、別の角度に傾いて見えた気がした。

壁の“厚み”が、いつもと違う。

——まただ。

胸の奥でざらつきが広がる。

図書館に入ると、空気が急に冷たくなった。冷房が強いわけではないのに、温度の“境界”をまたいだような、はっきりとした切り替わりがあった。

境界を越えた瞬間だけ、皮膚の表面がわずかに縮む。

席に座り、ノートを開く。ページの白さがいつもより明るく、紙の繊維が妙に細かく見える。

白さが“発光”しているように見えた。

ペンを持つと、指先の感覚がまた遅れてきた。書こうとした瞬間、手が一瞬だけ止まる。

——何を書こうとしてたんだっけ。

思い出せない。だが、“思い出せない”という事実だけが、やけに鮮明だった。

記憶の表面に、薄い膜が張られている。

向かい側で杉山がページをめくる。その音が、少しだけ違う。乾いた紙の音ではなく、どこか湿ったような、重さを含んだ音に聞こえた。

音の“質感”が、世界のものではない。

「おまえ、ほんとに大丈夫か?」

杉山の声がまた半歩ずれて届く。

声の“位置”が、また変わっている。

「……大丈夫だよ」

そう答えた瞬間、胸の奥で何かが“カチッ”と音を立てた気がした。実際には何も聞こえていない。それでも、確かに“何かがはまった”ような感覚があった。

はまったのは、ぼくではなく、世界のほうだ。

次の瞬間、視界がほんの一瞬だけ暗くなる。瞬きをしたわけでも、照明が落ちたわけでもない。ただ、世界が一拍だけ遅れた。そしてすぐに戻る。

その“一拍”のあいだだけ、世界が別の位置にあった。

ぼくは深く息を吸った。空気が肺に入る感覚が、いつもより冷たく、身体の“位置”がまた少しだけ横にずれたような気がした。

ずれた位置に、身体が馴染もうとしている。

——何が起きてるんだ。

そう思った瞬間、また思考に蓋がされる。考えようとすると、霧がかかったように意識が滑っていく。

考えることそのものが、世界に拒まれている。

ノートの白いページを見つめる。そこに、いつのまにか細い線が一本、うっすらと引かれていた。書いた覚えはない。だが、ぼくの字に似ている。似ているのに、どこかが違う。

“ぼくではない誰か”が書いた線のように見えた。

その線を見ていると、胸の奥のざらつきが、ゆっくりと、しかし確実に形を持ち始めていくのを感じた。

何かが動いている。

ぼくの“いま”が、また少しだけ押し出されていく。

止めようとしても、止まらなかった。

止まる気配すらなかった。


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