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プロローグ-間の影-第11話「閃点」

プロローグ-第11話「閃点」

図書館の空気は、夕方に近づくにつれて静かに冷たさを増していた。窓際の席に移ったぼくは、開いたままのノートを前にしながら、しばらく視線を動かせずにいた。ページの白さがやけに明るく、紙の繊維が細かく浮かび上がって見える。視線を少し動かすだけで、その白さがわずかに遅れて追いかけてくるような感覚があった。

世界の“ずれ”は相変わらず続いていた。だがその揺れは、もう驚きではなかった。身体の奥に沈んだ石のように、最初からそこにあったものみたいに、静かに重みを持って居座っている。

慣れてきている。

慣れてしまっている。

その事実が、胸の奥をひどく冷たくした。

向かいで杉山が参考書をめくる。ページの音が、乾いた紙の音ではなく、どこか湿り気を帯びた重い音に聞こえる。一定のリズムで続くその音が、時間の刻み方そのものを少しだけ歪めているように感じられた。

ぼくはノートに視線を落とす。講義中に見えた白い直線のことを思い返す。黒板に引かれた線。ノートに、いつのまにか現れていた細い線。思い出そうとするたびに、その線だけがやけに鮮明に浮かび上がり、他の記憶は薄く霞んでいく。

そのとき、視界の端で光が揺れた。

顔を上げると、窓の外に一本の飛行機雲が伸びていた。白く、細く、まっすぐで、空の青を切り裂くように伸びていく。その線は、どこまでも迷いがなく、ただ一直線に続いている。

その線を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

——あの線と、同じだ。

そう思った途端、言葉より先に、感覚が動いた。

黒板の線。

ノートの線。

空の線。

それぞれ別の場所にあるはずなのに、どれも同じ“方向”を指している気がした。見ているはずの位置が違うのに、どこかで一本につながっているような、不自然な連続感。

ぼくはノートを閉じ、窓の外を見つめた。飛行機雲は、まるで誰かが空に描いた“印”みたいに、静かにそこに残り続けている。その白さが、視界の奥でじわりと広がっていく。

次の瞬間だった。

飛行機雲の線と、教授の線と、ノートの線が——

視界の中心で、重なった。

白い光が、走った。

音はなかった。時間もなかった。

ただ、“線”だけが、意識の奥に焼きつく。

三本の線が、雷のように一瞬で束ねられ、胸の奥を貫いた。

息が止まる。

視界が一度だけ、深く沈んだ。

——そこで、何かに触れた気がした。

言葉になるより先に、形だけが浮かぶ。

掴めそうで、まだ輪郭が曖昧なままの“何か”。

山下教授の講義。

杉山、そしてぼく。

そこまで浮かんで、思考がわずかに途切れた。

けれど、その続きを、もう知っている気がした。

ほんの一瞬だけ、世界の奥に“規則”のようなものが見えた。

それが何かは分からない。ただ、ずれが偶然ではないことだけが、妙に確かな感触として残った。

——蓋が外れた。

そんな感覚が、遅れて胸の奥に広がる。

世界の色が、ほんのわずかに変わる。

空気の密度が変わり、音の位置が変わり、距離の取り方そのものが、少しだけずれた。

だが今度は、それを“見失わなかった”。

ぼくはしばらく動けなかった。椅子の背にもたれたまま、胸の奥に残った感触を、逃がさないように呼吸を整える。

世界はまだ揺れている。

だがその揺れの奥に、確かに何かがある。

見えないが、消えない。

——確かめられる。

その感覚だけが、はっきりと残った。

ゆっくりと立ち上がる。椅子の脚が床をこする音が、やけに鮮明に耳に残る。杉山が顔を上げたが、ぼくは何も言わずにスマホを取り出した。

山下教授の次の講義の日程を確認する。

画面の文字が、一瞬だけ遅れて意味を持つ。

胸の奥で、静かに何かが固まっていく。

それは恐怖ではなかった。

焦りでもなかった。

ただ、ひとつだけ、はっきりしている。

——知りたい。

ずれの正体を。

あの線の意味を。

そして、自分がどこに立っているのかを。


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