第1章=浮ぶ影-第1話「俟時(しじ)」
◆第1章=浮ぶ影-第1話「俟時」
山下教授と杉山と自分。
この三人が揃うとき、わずかに世界が軋むような気がする。
最初にそれに気づいたのは偶然だった。
いや、偶然だと思っていた。
飛行機雲。黒板の線。ノートの線。
あのとき、光が跳ねた。
——三本の線が、一瞬だけ重なった。
思い返すと、講義の途中、ある瞬間だけ時間が引き伸ばされたように感じた。
音が遅れて届き、杉山が顔を上げるタイミングと、自分が息を吸うタイミングが、ぴたりと重なった。
意味なんてないはずなのに、その一致だけが妙に残った。
胸の奥に、薄い針の先で触れられたような感触があった。
それが一度だけなら、気のせいで済んだ。
だが、三度似たような“ズレ”を経験するうちに、それは頭の奥に沈まず、逆に輪郭を持ちはじめていた。
ぼんやりした影が、ゆっくりと形を持ち始めるように。
三人が揃うこと。
そこまでは、ほとんど確信に近かった。
言葉にした瞬間、胸の奥にわずかな熱が生まれる。
理由も根拠もない。
ただ、その組み合わせに触れたときだけ、世界のどこかが引っかかるような感触があった。
触れた指先だけが、わずかに冷たくなるような。
次の講義までの数日間、落ち着かなかった。
何をしていても、意識の端にそれが残る。
テレビの音も、食事の味も、杉山との何気ない会話も、どこか遠い。
表面では普通に過ごしているのに、奥のほうではずっと待っている。
待っている自分に気づくたび、胸の奥がわずかにざわついた。
次が来る。
そう思うたび、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。
杉山と話しているときも、どこか上の空だった。
「最近さ、教授の話って難しくなってない?」と聞かれても、曖昧にうなずくだけで、言葉が続かない。
視線だけが、無意識に講義のほうへ向いている。
自分でも気づかないうちに、呼吸が浅くなっていた。
待っているのは講義そのものじゃない。
その中で起こる“何か”だ。
その日が来た。
教室に入った瞬間、空気がわずかに違って感じられた。
特別な何かがあるわけではない。
机も黒板も、ざわめきも、すべていつも通りだ。
なのに、奥行きだけがほんの少し薄くなったような、輪郭だけが先に浮かび上がっているような、不自然な静けさがあった。
空気の密度が、わずかに変わっている。
杉山はすでに席についていて、軽く手を挙げた。
その動きが、なぜかやけに目についた。
まるで、その瞬間だけ時間が浅く沈んだように見えた。
教授が入ってくる。
講義が始まる。
心臓の音が、わずかに速い。
——来る。
そう思った。
だが、何も起こらなかった。
時間は歪まない。
音も遅れない。
杉山の動きも、自分の呼吸も、ただ流れていくだけだった。
ほんの少しの遅延も、重なりもない。
拍子抜け、というよりも、何かを取り逃したような感覚だけが残る。
手を伸ばした瞬間に、指先だけ空を掴んだような。
おかしい。
確かに揃っていたはずだ。
そう思った。
だが、どこかが違う。
何が違う?
その問いだけが、講義のあいだ中、頭の奥に居座り続けた。
ノートは取っている。
だが、文字は並んでいるだけで、意味として繋がらない。
線を引き、言葉を書き留める動作だけが、機械みたいに続いていく。
書いているのに、書いた感覚が薄い。
講義が終わる頃には、最初にあった熱は静かに冷えていた。
その代わりに、別の感覚が残っていた。
——見落としている。
何か決定的なものを、自分は見落としている。
ふと、最初に違和感を覚えた日のことを思い返す。
あのとき、自分は何を考えていた?
杉山は?
教授は?
ただ三人がそこにいただけではなかったはずだ。
もっと細い、別の“条件”があったのではないか。
帰り道、いつもと同じ景色が、わずかに違って見えた。
期待は裏切られたはずなのに、不思議と落胆はなかった。
むしろ、奥のほうで何かが静かに残っている。
消えていない。
あれは偶然ではない。
ただ、まだ辿り着いていないだけだ。
正しい位置に。
正しい組み合わせに。
ならば、探せばいい。
何度でも。
あの“ズレ”が起きた場所まで、もう一度。
——たとえ、それが“同じ場所”でなくなっていたとしても。




