第1章=浮ぶ影-第2話「かぎ」
◆第1章=浮ぶ影-第2話「かぎ」
次の講義の日が来るまで、落ち着かなかった。
前回の“空振り”が、逆に確信を強めてしまったせいだ。
あれは偶然じゃない。三人が揃えば、何かが起こる。
そう思い込んでいた。
いや、思い込みたかったのかもしれない。
夏休みまで、もう数えるほどしか講義が残っていない。
試せる回数が限られている。
そう考えると、胸の奥がじわじわと締めつけられるようだった。
その日の午前中、前に飛行機雲を見た図書館の椅子に座りながら、「違い」が何なのかを考えていた。
「今日の講義の予習してんのか?」
唐突に杉山の声が落ちてきた。
「いや、してない」
本当に、講義内容なんてどうでもよかった。
気になっているのは、あの“ズレ”が起こるかどうか、それだけだ。
杉山は「最近、教授の話、難しくなってきてるよな?」と、先週と同じことを言って笑った。
同じ言葉のはずなのに、前に聞いたときと、どこか“重さ”が違う気がした。
ほんのわずかな違い。だが、確かに引っかかる。
気のせいだろうか。
いや、気のせいにしておきたかった。
教室に入ると、前回と同じように、空気の透明度がわずかに高い気がした。
杉山はいつもの席にいて、軽く手を挙げる。
その動きを見た瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが走る。
——前にも、見た。
既視感が、ほんの一瞬だけ、鋭く差し込んだ。
教授が入ってくる。
心臓が、前回よりも速く打っている。
「今度こそ」
そんな期待が、喉の奥に張り付いて離れなかった。
講義が始まる。
カツカツと音を立て、黒板に文字が埋められていく。
チョークの粉が光を散らす。
杉山がノートをめくる音がする。
自分の呼吸が浅くなる。
条件は揃っている。
揃っているはずだ。
来る。
来るはずだ。
そう思った。
だが——何も起こらなかった。
時間は歪まない。
音も遅れない。
光も跳ねない。
杉山の動きも、教授の声も、ただの連続した現実のまま流れていく。
前回の“拍子抜け”とは違った。
今回は、胸の奥がすとんと落ちるような感覚だった。
期待していた分だけ、落胆は深かった。
講義の後半には、もう何も考えられなかった。
ノートに書いた文字は、ただの線の集まりにしか見えなかった。
講義が終わり、学生たちが一斉に席を立つ。
杉山が「帰る?」と声をかけてきたが、うまく返事ができなかった。
「……先に帰ってて」
自分でも驚くほど弱い声だった。
教室に一人残り、黒板を見つめた。
何も起こらなかった。
その事実が、妙に重かった。
夏休みまで、あと四回。
四回しかない。
その数字が、頭の中で何度も反響した。
帰り道、キャンパスの木々の影が長く伸びていた。
風が吹き、葉が揺れる。
その揺れ方が、ほんの一瞬だけ、前と違うように見えた。
でも、すぐに元に戻った。
ただの風。ただの揺れ。
期待が裏切られたはずなのに、完全に諦めることはできなかった。
むしろ、焦りが静かに積もっていく。
次こそ。
次で起きなければ、もう夏休みに入ってしまう。
試せなくなる。
その焦りが、胸の奥でじわじわと広がっていった。
歩きながら、ふと気づいた。
前回と今回、何が違った?
三人が揃っているだけでは足りない。
何かが欠けている。
その“欠け”が、どこにあるのか。
考えた瞬間、ひとつの可能性が浮かぶ。
——意識していることが、条件なのか?
あのとき、自分は何を考えていた?
杉山は?
教授は?
ただ三人がそこにいただけではなかったはずだ。
もっと細い、別の条件があったはずだ。
考えれば考えるほど、霧のように形を変えていく。
だが、その奥に、確かに何かがある。
でも——
どこかで、確信に近いものがまだ残っていた。
あれは偶然じゃない。
——ただ、まだ“欠けている”だけだ。
ただ、まだ“正しい鍵”を見つけていないだけだ。
夏休みまで、あと四回。
その四回のどこかに、答えがある。
——いや、見つけ出すしかない。




