第1章=浮ぶ影‑第3話「必然」
第1章=浮ぶ影‑第3話「必然」
夏休みまであと三回と迫ったその日、先週は一回休講で流れてしまっていたのだが、講義が始まってしばらくして、ふと気づいた。今日は、いつもより教室が静かだった。ざわめきが少ないわけではない。ただ、音の輪郭がどこか柔らかく、遠くに感じられる。黒板にチョークが当たるたび、乾いた音が空気の奥へ吸い込まれていくようだった。
これで六回目だ。
最初の“ズレ”に気づいてから、六度目の講義。
今日こそ何かが起こるはずだ、という期待と、どうせまた何も起こらないだろうという諦めが、胸の奥でゆっくりとせめぎ合っていた。
山下教授は、いつものように淡々と話し始めた。
「人生に偶然は存在しない」
その言葉が、黒板に書かれた文字よりも先に、胸の奥に落ちてきた。
教授は続ける。
「人は選択していると思っている。しかし、それは錯覚だ。選択とは、無数の可能性の中から“ひとつを選ぶ”行為ではない。むしろ、すでに決まっている線の上を、ただなぞっているだけだ。」
黒板に一本の線が引かれる。
まっすぐで、揺らぎのない線。
その線を見た瞬間、背筋がわずかに冷えた。
「たとえば、朝どの道を通るか。昼に誰と話すか。夜に何を考えるか。人はそれを“自分が選んだ”と思う。しかし、実際には、選ぶ前から結果は決まっている。選択は、後からついてくる物語にすぎない。」
教授の声は淡々としているのに、言葉だけが妙に強く響いた。
杉山がノートを取る音が、いつもよりゆっくり聞こえる。
自分の呼吸が、少し深くなる。
六回目。
今日も何も起こらなかったら、残りは二回。
その数字が、意識のどこかで静かに重く沈んでいた。
「偶然という言葉は、理解できない現象に貼られた仮のラベルだ。だが、ラベルを剥がせば、そこには必然の構造がある。人はその構造を知らないだけだ。」
その言葉が落ちた瞬間、頭の中で何かが弾けたような感覚があった。
“偶然”と“必然”という二つの言葉が、急に輪郭を持って迫ってくる。
黒板の線が、教授の声が、杉山のペンの動きが、すべてその二語に吸い寄せられていく。
「偶然。必然。偶然。必然……」
言葉が頭の内側で反響し、他の思考を押しのけていく。
期待しているのか。
諦めているのか。
自分でもよくわからなかった。
ただ、教授の言葉だけが、妙に鮮明に響いていた。
気づけば、教授の声が遠くなり、教室の空気がわずかに濃くなったように感じた。
教授は黒板に描いた二本の線を見つめながら続ける。
「人は“選んだ”と思っている。しかし、選択とは、無数の線の中から一本を選ぶ行為ではない。意識が、すでに存在する線のどれかに“位置づけられる”だけだ。」
その瞬間、胸の奥がざわついた。
位置づけられる。
選ぶのではなく、置かれる。
その言葉が、これまで自分が感じてきた“ズレ”と妙に重なった。
教授の声が、ゆっくりと、しかし確実に頭の奥へ沈んでいく。
「偶然に見えるのは、ただその線の構造を知らないからだ。知らないものを偶然と呼んでいるだけだよ。」
「偶然。知らない。」
「必然。構造。」
言葉が次々と浮かび上がり、頭の中で結びつき、ほどけ、また結びつく。
思考が勝手に動き始める。
教授の言葉を追っているのか、自分の内側を追っているのか、境界が曖昧になる。
気づけば、極度の集中状態に入っていた。
視界の端がゆっくりとぼやけ、黒板の線だけが異様にくっきりと見える。
一本の線。
そのすぐ横に、もう一本。
わずかにずれている。
その“わずか”が、やけに鮮明だった。
その直後、教室の空気がわずかに沈んだように感じた。
何かが、音もなくこちらへ寄ってくる気配だけがあった。
急に遠くなった。
ぼくは——押し出されていた。
視界が、ほんのわずかに横へ滑る。
黒板の線が二重に見える。
一本は“いま”の位置に、もう一本は、ほんのわずかにずれた場所に。
その二本が、重なりきらない。
——これだ。
胸の奥で、何かが確かに反応した。
だが次の瞬間、すべてが元に戻る。
音も、距離も、光も、何もかもが、何事もなかったかのように繋がる。
教授の声が、続きから流れている。
杉山が、何もなかったようにペンを走らせている。
ぼくの呼吸も、遅れて、元の位置に戻る。
ただ、胸の奥にだけ、はっきりとした痕が残っていた。
——押し出された。
さっきよりも、はっきりと。
“ぼくの位置”が、ずれた。
そして今度は、それが偶然ではないと・・・疑いようがなかった。




