エピローグ=影の底-第3話「浸食」
◆エピローグ=影の底-第3話「浸食」
家に帰ると、碧がいる。
リビングのソファに深く腰掛け、ぼんやりとスマホをいじっているその姿は、夕闇が迫る部屋の中で見慣れた風景の一部になっていた。
ぼくが玄関の扉を閉める音に気づくと、彼女は顔を上げ、いつものように軽く右手を振る。その指の曲げ方、肘の角度。それは、ぼくの世界にいた碧と「ほぼ」同じだった。
だが、その「ほぼ」の隙間に、鋭い楔のような違和感が刺さる。
スマホを置いた後の、ペンの回し方が速すぎる。指先でくるくると回るシャープペンの回転速度が、ぼくの記憶にある碧のそれとは明らかにちがう。
笑うときに細められる左目の角度が、ほんの数ミリだけ深い。
そして何より、彼女の瞳の奥には、ぼくの知らない夏休みの、ぼくの知らない笑顔の記憶が、完成されたパズルのように収まっている。
「あっおにいちゃん、おかえり。意外と早かったね」
その声は、ぼくの知っている碧よりも半音ほど低かった。
けれど、その響きにはなんのよそよそしさもなかった。
それはあまりに「普通」で、あまりに自然な、響きだった。
違和感はいたるところにあるのに、日常は平然と「普通」を装って流れていく。
家族も同じだった。食卓を囲む父の箸の持ち方、母が味噌汁の味を確かめる時の首の傾げ方。
ぼくの世界と「ほぼ一致」しているのに、何かが決定的に違う。
そして、彼らはこの「違うぼく」を、何の疑いもなく「この世界のぼく」として迎え入れ、今日あった出来事を話し、笑い合う。
違うのに、普通。普通なのに、違う。
その矛盾の檻の中に、ぼくは閉じ込められていた。
食後、碧が台所で皿を洗っていた。
蛇口から流れる水の音と、皿が触れ合う陶器の音。ぼくはその背中を、リビングの影からじっと見つめていた。
そのとき、不意に胃のあたりが冷たくなるような感覚に襲われた。
ぼくは、この世界の「ほぼ一致」に、少しずつ、けれど確実に慣れていく自分自身に気づいてしまった。
最初にあれほど神経を逆撫でさせた「違い」が、砂浜の足跡が波にさらわれるように、ゆっくりと摩耗していく。
低めの声も、速すぎるペンの回転も、深すぎる笑い方も、それらを「間違い」として認識するぼくの内側のセンサーが、静かに機能を停止しようとしている。
慣れていくことは、ぼくの世界に置いてきた「本物の碧」に対する裏切りのようにも感じられた。
碧のディテールを忘却し、目の前の「ほぼ同じ碧」で上書きしていくことは、ぼくという存在の核を、自ら削り取っていく作業みたいだった。
それでも、ぼくにはこの世界を拒絶する正当な理由が見つからなかった。
この世界の碧も優しく、この世界の家族も温かい。
ここにはぼくの居場所があり、ぼくの座るべき椅子が用意されている。
「違和感があるから」という理由で、この平穏な地獄を拒み、実体のない空虚へと飛び出す勇気は、今のぼくにはもう残っていなかった。
諦めの気持ちが、潮のように足元から這い上がってくる。
ぼくはこのまま、この「少しだけ違う世界」の住人として完成されていくのだろうか。
碧の背中を見つめながら、ぼくは自分の記憶の輪郭が、目の前の現実の色彩にじわじわと染め上げられていくのを感じていた。
抵抗する意志さえも、流れる水の音にかき消されていく。
ぼくは、ぼくでなくなっていく。
その静かな恐怖にさえ、ぼくはもう、慣れ始めていた。




