エピローグ=影の底-第2話「正体」
◆エピローグ=影の底-第2話「正体」
守埜のことを考えると、胸の奥がまだ少し痛んだ。
あの世界で、ぼくが守埜に言った「行っとけば」の言葉。
あの一言が、どんなふうに守埜の背中を押したのか。
あれが彼を死へ追い込んだのか、それともただ背中を軽く押しただけだったのか。
考えるたびに、答えは深い霧の中に沈んでいった。
でも、この世界に馴染み、自分自身すら疑い始めた今のぼくにとって、その痛みは別の色を帯び始めている。
ぼくは、この「痛み」さえも疑い始めていた。
「ぼくの世界」の記憶だと思っていたものは、本当にぼく自身の体験だったのか。
それすらも、この世界がぼくを「後悔という役割」に固定するために流し込んだ、偽のプログラムではないのか。
そう考え始めると、守埜の顔も、あの時の病室の空気も、すべてが作り物のように思えてくる。
記憶も、感情も、後悔も、何もかもが疑わしい。
ぼくの輪郭を形作っていたはずの過去が、足元から崩れ去っていく感覚。
何も信じられない。
自分が誰だったのかも、何を失ったのかも分からない。
真っ暗な、底の見えない場所に、ぼくは一人で立っていた。
だが、その虚無の底で、どうしても消えないものがあった。
記憶が偽物かもしれない。
この世界自体が作り物かもしれない。
ぼくが思っている後悔が、何の根拠もないバグのようなものかもしれない。
それでも——。
「今、この瞬間にぼくが痛いと感じていること」
それだけは、疑いようがなかった。
後悔の中身が「本物」である必要はなかった。
ぼくが「痛い」と感じ、その痛みに胸を締め付けられているという事実。
その現象だけは、世界がどれほど偽物であっても、上書きしようのない現実としてそこに居座っていた。
意味のないはずの痛みが、これほどまでにリアルにぼくを刺している。
その「痛みを感じている」という一点こそが、ぼくが今ここで生きていることの、唯一の証明だった。
その「底」に触れたとき、この世界で杉山から聞いた言葉が、意味を持って響き始めた。
「おまえが言ったから、守埜は行ったんだよ」
杉山はそう言った。
ぼくの世界の杉山と同じように、少しだけ呆れたような、でも責めていない声で。
あの独特の、軽く肩をすくめるような言い方で、ただ事実だけを置くように。
その言葉は、もはや「もやを晴らす救い」ではなかった。
むしろ、ぼくが抱える「痛みの正体」を外側から固定する鎖のように感じられた。
杉山がそう言うのなら、この世界でも、あの世界でも、ぼくの言葉は守埜に届いていたのだろう。
結果として彼を動かしたという事実だけが、因果の糸を越えてぼくを縛っている。
ぼくがどう思っていたかとか、ぼくが後悔しているかどうかとか、そんな主観的な正しさはどうでもよかった。
ぼくの言葉が守埜を動かし、その結果として、今ぼくが痛みを感じている。
そのことが、ぼくを責めるようにも感じたし、逆に、世界に溶けそうになるぼくを繋ぎ止める錨のようにも感じられた。
ぼくの言葉は、ちゃんと届いていた。
それがもたらした結末がどれほど残酷であっても、その「届いた」という手応えと、それに伴う「痛み」だけは、どの世界も奪うことができないぼくだけのものだった。
胸の奥にずっと溜まっていたもやは、晴れたわけではない。
ただ、それは形を変え、ぼくの内側で硬い芯のようなものに変わった。
記憶が混ざり、自分が誰か分からなくなっても、この痛みがある限り、ぼくは迷子にはならない。
暗闇の底で、ぼくは自分の痛みをそっと抱きしめた。その鋭い感触が、ぼくの輪郭を冷たく、けれど確かに照らしていた。




