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エピローグ=影の底-第1話「混濁」

◆エピローグ=影の底-第1話「混濁」

もう押し出されないのかもしれない。

そんな思いを胸の奥に抱えたままでも、碧とのディズニーランドでの一日は楽しかった。

笑って、歩いて、写真を撮って。

ぼくの世界とほとんど同じキャラクターを見て、ぼくの世界の碧とほとんど同じ仕草で手を振る碧を見て、胸の奥が少しだけざわついたけれど、そのざわつきも、アトラクションの極彩色の音や人混みの喧騒に紛れていった。

気づけば、夏休みは終わっていた。

世界は相変わらず“ほぼ一致”のまま続いていて、ぼくはその中で、押し出されないまま、ただ日々を過ごしていた。

世界は揺れない。

影は遅れない。

音もずれない。

あの、世界から剥がれ落ちるような前兆は、どこにもなかった。

学校が始まっても、ぼくは普通に授業を受け、普通に帰った。

“普通”という言葉が、少しずつぼくの中で当たり前になっていく。

だが、その「当たり前」に気づいたとき、背筋に言いようのない冷たいものが走った。

「ここでいいや」

そんな、泥のような安堵が自分の中に芽生えていることに気づいてしまったからだった。

杉山の眼鏡のことも、碧が笑うときの癖も、当初はあんなに「違う」と拒絶していたはずなのに、今はもう、それが当然の風景としてぼくの中に定着している。

ぼくは、歩きながら自分を疑い始めた。

この心地よさは、ぼくがこの世界に「上書き」されている証拠じゃないのか。

碧を愛おしいと思うこの感情さえ、この世界に最適化された「偽物」なんじゃないのか。

かつてあれほど喉を焼いた「ぼくの世界に帰りたい」という渇望が、今はひどく遠く、薄い膜の向こう側の出来事のように感じられる。

それは、ぼくが適応したからではない。ぼくという存在が、この世界の解像度に塗りつぶされて消えていくプロセスを、ぼくは「安堵」と呼び間違えているだけなんじゃないのか。

だとしたら、今こうして「自分は自分だ」と思っている思考そのものすら、この世界がぼくを馴染ませるために用意した、精巧な書き換えの結果かもしれない。

信号待ちのとき、胸の奥に浮かんだ問いが鋭い形になり、足が止まった。

最初は、押し出された感覚だった。

あのときのぼくは、ただ流されていた。

背中を軽く叩かれたように、気づいたら世界が変わっていた。

途中からは、押し出すことができた。

無意識のフォーカスを作れば、世界は揺れ、影が遅れ、音が半拍ずれて、ぼくは“落ちる”ことができた。

自分の意思で、この不確かな連なりを移動しているのだと、そう思っていた。

でも今は、押し出すことができない。

押し出されたいのに、世界は動かない。

じゃあ、あのとき押し出していたのは——本当に“ぼく”だったのか。

ぼくが押し出せば、無限のぼくが玉突きされる。

ぼくが落ちるとき、どこかの世界のぼくも落ちていた。

じゃあ、今のぼくが動けないのは、ぼくが押し出せないからじゃなくて、どこかの世界の“押し出すことができるぼく”が、もうぼくを押し出そうとしていないだけなのかもしれない。

そんな考えが、静かに、そして重く沈んできた。

正しいのかどうかは分からない。

でも、胸の奥に残ったのは、説明できない巨大な“影”のような感覚だった。

ぼくは押し出されたい。ここじゃない、ぼくの痛みが正しく意味を持つ場所に帰りたい。

でも、ぼくの意思では、もう一歩も動けない。

ぼくという主導権は、すでにこの世界の流れに溶けて消えてしまったのかもしれない。

信号が青に変わった。

ぼくは歩き出した。

夕方の光は、ぼくの影を長く伸ばしていた。

その影の輪郭が、二重に見えた気がした。一瞬だけ、何かが遅れて付いてきたような揺らぎ。

でも、瞬きをすれば、それはすぐに元に戻った。

その一瞬の空白に、胸の奥がひやりとした。

——ぼくは、ぼくなのか。

その問いが、夕方の光の中で静かに、けれど逃れようのない重さで浮かんだ。

答えはどこにもなかった。

ただ、その「自分すら信じられない」という底知れない疑念だけが、ぼくの内側にかすかな輪郭を刻んでいた。

歩きながら、ぼくはその不確かな輪郭を、壊さないようにそっと確かめた。

触れようとすれば崩れてしまいそうな、あまりにも心許ない膜だった。

ぼくの世界の記憶も、この世界の記憶も、どちらも同じ速度でぼくの中に沈んでいく。

かつての親友の顔も、今の親友の眼鏡も、混ざり合い、曖昧になり、どちらが“本当”だったのか、もう区別がつかなくなっていた。

でも、この混濁の底で、ひとつだけ、どうしても混ざらないものがあった。

「ぼくは本物じゃないかも」と疑っている、この震えるような意識だけが、どの世界のぼくとも重ならなかった。

ぼくがどれだけ揺れても、どれだけ薄くなっても、自分が自分であることさえ疑うほどの絶望の中にしか、ぼくの本当の居場所はないのかもしれない。

そんな矛盾した思いを抱えながら、ぼくは長く伸びた自分の影を見つめ続けた。

夕方の風が頬をかすめた。

ぼくは歩き続けた。

自分という存在が消えていく恐怖と、それでも今ここで思考を止めていない自分を抱えたまま。

どちらが本当のぼくなのかは分からない。

ただ、いま、ここで、ぼくはぼくが消えることが恐いと思った。

その痛切な一点だけが、溶けそうになるぼくの輪郭を、かろうじてこの世界に繋ぎ止めていた。


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