第3章=収束-第15話「概近」
◆第3章=収束-第15話「概近」
部屋に戻ると、空気が少しだけ重く感じた。
窓の外の光は、ぼくの世界とほとんど同じだった。
でも、ほんの少しだけ色が薄かった。
——ほとんど。
その“ほとんど”が、胸の奥にまた沈んだ。
机の上に本を置くと、紙が触れ合う音が乾いて響いた。
その音が、ぼくの世界の音とゆっくり重なっていく。
違いが薄くなる。
境界が曖昧になる。
ぼくはベッドに腰を下ろした。
スプリングの沈み方は、ぼくの世界とほぼ同じだった。
でも、沈む速度が少し違った。
その違いを見つけても、胸の奥はもう動かなかった。
押し出されたい。
ここじゃない。
帰りたい。
そう思っても、胸の奥は何も反応しなかった。
あの前兆——影の遅れも、音のずれも、視界の揺れも、どこにもなかった。
ぼくは天井を見た。
模様はぼくの世界とほぼ同じだった。
でも、線の角度が少し違った。
その違いを見つけても、胸の奥は静かだった。
——ぼくは、ここに固定されていく。
そんな感覚が、ゆっくりと形になっていった。
ぼくの世界の記憶が、少しずつ遠ざかっていく気がした。
碧の声。
守埜の笑い方。
杉山の歩く速度。
全部、ぼくの中で“ほぼ一致”の別の記憶と混ざり始めていた。
どれがぼくの世界で、どれがこの世界なのか、境界が薄くなっていく。
ぼくは目を閉じた。
暗闇の中で、ぼくの呼吸だけが静かに続いていた。
その呼吸の音が、ぼくの世界の呼吸と重なっていく。
重なるたびに、ぼくの輪郭がゆっくり削られていくようだった。
胸の奥の“ぼく”が、少しずつ薄くなっていく。
輪郭が曖昧になり、どこまでが“ぼく”で、どこからが“この世界のぼく”なのか、その境目が溶けていく。
思い出そうとすると、記憶の端が別の記憶と重なり、どちらが先だったのか、どちらが本物だったのか、判断できなくなっていく。
ぼくの中で、静かに沈んでいくものと、静かに浮かび上がるものが、同じ速度で混ざりあっていく。
その混ざり方が、まるで“ぼく”という器の中身が、ゆっくりと別の液体に置き換わっていくようだった。
色は似ているのに、匂いも温度も違う。
でも、混ざり合えば区別がつかなくなる。
——ぼくは、ぼくなのか。
その問いが、暗闇の底でゆっくり浮かんだ。
世界を渡るたびに、“ぼく”は少しずつ変わっていった。
記憶も、感覚も、後悔も、願いも。
どの世界のぼくが“本当”なのか、もう分からなくなっていきつつあった。
ぼくの中で、いくつもの“ぼく”が静かに重なり、ゆっくりと一つに溶けていくようだった。
そして——
その溶けていく最中に、かすかな灯りのようなものが胸の奥に浮かんだ。
“ぼくがぼくを思う”という、ただそれだけの灯り。
けれど、その灯りが何を照らしているのか、もう分からない。
守埜への後悔も、碧への愛着も、帰りたいという願いも、全部曖昧になっていた。
残っているのは、「思っている」という事実だけ。
その“だけ”の心細さが、胸の奥に静かに広がった。
それでも——
ぼくはぼくを思っている。
その“思っている”という一点だけが、ぼくの輪郭を保っていた。
押し出されない。
揺れない。
ずれない。
世界は、ぼくの願いとは無関係に、ただ“ほぼ一致”のまま続いていく。
ぼくは、この世界に留められている。
いや——
ぼくは閉じ込められた。
その確信だけが、暗闇の底で静かに光っていた。
そして、その光を見つめている“ぼく”だけが、“ぼく”だった。




