第3章=収束-14話「滞留」
◆第3章=収束-14話「滞留」
押し出されたいと思った。
この世界は、ぼくの世界に近い。
限りなく近いのに、決定的に違う。
その“近さ”が、胸の奥をじわじわと締めつけていた。
守埜の死因も、碧の記憶も、杉山の癖も、全部“ほぼ一致”しているのに、違いははっきり分かる。
——ここじゃない。
その確信だけが、はっきりしていた。
ぼくは机の上の本を掴んだ。
「……杉山、行くぞ」
「は? どこに」
「教授のところ」
杉山は面倒くさそうに眉をひそめたが、
ぼくの顔を見て、何も言わずについてきた。
歩きながら、ぼくは何度も深呼吸した。
胸の奥の重さは消えなかった。
呼吸はできるのに、肺の奥だけが冷えているようだった。
——押し出されたい。
——ぼくの世界に帰りたい。
その願いだけが、ぼくを前に進ませていた。
廊下の光は、ぼくの世界とほとんど同じだった。
蛍光灯のちらつきも、壁の色も、床の反射も。
でも、足音の響き方が違った。
ほんの少しだけ高い。
それだけで、胸の奥がまた沈んだ。
教授の研究室の前に立つと、
ぼくの心臓は妙に静かだった。
静かすぎて、逆に不安になった。
ノックした。
「どうぞ」
返ってきた声は、教授の声に“ほぼ”似ていた。
その“ほぼ”が、すでに嫌な予感だった。
ドアを開けた。
ぼくの世界で見たことのない資料が散らばっていた。
配置も違う。
匂いも違う。
空気の温度も違う。
そして——
「山下教授……じゃない」
思わず口に出た。
「教授、こんにちは」
杉山が普通に挨拶をする。
その瞬間、胸の奥が冷えた。
——この世界では、この人が“教授”なんだ。
ぼくの世界の教授は、ここにはいない。
ぼくの世界の教授は、ぼくを見ていた。
ぼくの世界の教授は、ぼくの“ズレ”に気づいていた。
でも、この世界の教授は、ぼくを知らない。
ぼくは本を開いた。
ページの並びが違う。
文章が違う。図が違う。紙の匂いも違う。
——これはぼくの世界の本じゃない。
胸の奥が、またひとつ沈んだ。
何かが欠けている。
何かが足りない。
押し出されるときに感じていた、あの“前兆”の気配がどこにもない。
ぼくはゆっくりと本を閉じた。
「……ぼくは、もう動けないのか」
乾いた声は、
研究室の空気に吸い込まれて消えた。
杉山がぼくを見た。
その眼鏡の奥の目は、ぼくの知っている杉山とほぼ同じだった。
——ほぼ。
その“ほぼ”が、胸の奥をさらに冷やした。
握った手が震えていた。
震えを止めようとしても止まらなかった。
押し出されたい。
ここじゃない。
戻りたい。
でも、ぼくは、自分の意思ではどこにも行けない。
理由は分からない。
ただ、動けない。
ただ、押し出されない。
その事実だけが、静かに沈んだ。
「……帰るか」
杉山が言った。
ぼくは頷いた。
足が重かった。
重さというより、足そのものが“ぼくのものじゃない”ような感覚だった。
研究室を出た瞬間、
視界の端が、ゆっくりと波打った。
音が、半拍遅れた。
影が、二重になった。
——世界が歪んだ。
ぼくは息を呑んだ。
落ちる——
そう思った。
でも、落ちなかった。
世界はすぐに元に戻った。
ぼくはその場に立ち尽くした。
押し出されたいと願っても、
ぼくは動けない。
ぼくは、この世界に留められている。
いや——ぼくは閉じ込められた。




