第3章=収束-第13話「異影」
◆第3章=収束-第13話「異影」
玄関を開けた瞬間、声が飛んできた。
「お兄ちゃん、今日も来たの?」
碧だった。
その声を聞いた途端、胸の奥がまた緩んだ。
押し出されるたびに、何かがずれていく世界の中で、碧の声だけは、いつもぼくを現実に引き戻す。
その“変わらなさ”が、ぼくの中の最後の支えみたいになっていた。
でも、すぐに違和感が追いついてきた。
「……ああ」
靴を脱ぎながら、碧を見る。
ほぼ一致している。
声も、仕草も、表情も。
ぼくの知っている碧と、ほとんど同じ。
——ほぼ。
その“ほぼ”が、胸の奥に小さなざらつきを残した。
リビングに入ると、机の上に碧のスマホが置かれていた。
画面には写真が並んでいる。
学校、友達、ノート、空。
どれも、碧らしい写真だった。
その中に、見覚えのない風景があった。
海。
「……これ、いつ撮ったの?」
ぼくが指さすと、碧は軽く首をかしげた。
「え? おととしの夏でしょ。お兄ちゃんと行ったじゃん、海」
ぼくは息を止めた。
「……海?」
「そうだよ。ほら、帰りにアイス食べたじゃん。
お兄ちゃん、チョコミント嫌いなのに頼んで後悔してたし」
ぼくは言葉が出なかった。
ぼくの世界のぼくは、チョコミントが好きだ。
そして、碧と海に行った記憶なんてない。
胸の奥が、またひとつ沈んだ。
——碧も“ほぼ一致”。
でも、決定的に同じではない。
ぼくの世界の碧は、ぼくの好みを知っている。
ぼくの世界のぼくは、チョコミントを嫌いじゃない。
ぼくの世界の夏には、海の記憶がない。
この世界のぼくは、チョコミントを嫌いで、海に行って、後悔している。
ぼくの知らない“ぼく”が、碧の中に生きている。
その事実が、胸の奥を静かに締めつけた。
碧は、ぼくの沈黙に気づいたのか、少しだけ不安そうに眉を寄せた。
「……お兄ちゃん、どうしたの?」
その問いかけが、ぼくの胸の奥に刺さった。
ぼくはぼくでいられているのか。
ぼくは、どの“ぼく”なんだ。
押し出されるたびに、ぼくの輪郭が少しずつ削れていくような感覚があった。
ぼくは碧の視線から目をそらし、机の上の本を握った。
教授から渡された本。
押し出されるための条件。
ぼくがぼくの世界へ戻るための唯一の手がかり。
教授。杉山。本。ぼく。
条件は揃っている。
ぼくは立ち上がった。
「……杉山、行くぞ」
「どこに?」
「教授のところだ」
杉山は一瞬だけ驚いたが、すぐに頷いた。
「……分かった」
その短い返事が、妙に重く響いた。
ぼくは本を握りしめた。
手のひらに汗が滲む。
胸の奥のざわつきは、まだ収まらない。
——ここじゃない。
その確信だけが、はっきり残っていた。
ぼくは碧の方を振り返った。
碧は、ぼくの知らない“ぼく”を見ている。
ぼくの知らない夏を覚えている。
ぼくの知らない後悔を知っている。
その距離が、決定的だった。
ぼくは玄関に向かって歩き出した。
背中に、碧の小さな声が落ちてきた。
「……また来るよね?」
ぼくは答えられなかった。
答えた瞬間、何かが決定してしまう気がした。
ドアを閉めると、世界の音がひとつ減ったように感じた。
ぼくは息を吸い、ゆっくり吐いた。
——押し出される。
その準備は、もう整っている。




