第3章=収束-第10話「ピース」
◆第3章=収束-第10話「ピース」
翌日、碧と顔を合わせた。
玄関を開けた瞬間、リビングから声が飛んでくる。
「お兄ちゃん、遅いって」
その言い方が、あまりにも“いつも通り”で、少しだけ足が止まった。
「……ごめん」
靴を脱ぐ動作も、床の感触も、全部が自然だった。
ここは確かに、ぼくの知っている家に近い。
碧はテーブルに参考書を広げていた。
ペンを回しながら、こっちを見る。
「今日、模試だったんだけどさ」
「ああ」
話を聞きながら、ぼくは細部を確かめていた。
声の高さ、間の取り方、表情の動き。
——同じだ。
ほとんど一致している。
「……どうしたの?」
碧が首をかしげる。
「いや、なんでもない」
言いながら、わずかな違和感が残った。
“ほとんど”という言葉が、頭に引っかかる。
どこが違うのかは分からない。
でも、完全じゃない。
その感覚だけが、残る。
「ねえ、夏休みのやつさ、昨日電話で話したけど」
碧が言う。
「ディズニー、行くんでしょ?」
その言葉に、一瞬だけ呼吸が止まる。
「ああ……行く」
「絶対だよ。去年みたいに流さないでよね」
——去年?
ぼくは顔を上げた。
「……去年?」
碧はきょとんとした。
「え? 約束したじゃん。結局行けなかったけど」
その言い方は自然だった。
嘘をついている感じはない。
でも、ぼくの記憶にはない。
去年、そんな約束はしていない。
胸の奥が、じわりと冷えた。
「……そう、だったな」
とりあえず合わせる。
碧は納得したように頷いた。
「今年はちゃんとね」
その笑顔が、ほんのわずかに遠く感じた。
——ずれている。
小さい。
でも確実に。
ぼくの記憶と、この世界の記憶が、噛み合っていない。
夜、部屋に戻ってから、ぼくはスマホを開いた。
守埜のことを調べる。
病名、時期、入院期間。
いくつかの記事や書き込みが出てくる。
「急性のやつらしい」
「発見が遅れたって」
淡々とした文字が並んでいた。
事故じゃない。
ぼくの言葉とも関係ない。
ぼくの存在は何も守埜の死に影響していない。
——それは分かっている。
分かっているのに。
指が止まる。
画面に映る日付を見たとき、胸の奥が揺れた。
「……近い」
あの日と、時期が近い。
ぼくが「行っとけば?」と言った日と、守埜が倒れた日が、完全ではないけど、重なりそうな位置にある。
偶然のはずだ。
でも、その“近さ”が、引っかかる。
——もし。
そんな言葉が、頭をよぎる。
この世界では関係ない。
それでも、「……行っとけば」
小さく呟いた。
その言葉は、ここでは意味を持たないはずなのに、胸の奥で、重く沈んだ。
ぼくの世界では、あの一言が何かを変えたかもしれない。
この世界では、最初から関係がない。
なのに、感覚だけが残っている。
原因のない後悔が、宙に浮いたまま、消えない。
ぼくはスマホを伏せた。
部屋の中は静かだった。
外から車の音が聞こえる。
エアコンの風が、一定のリズムで流れている。
全部、正常だ。
なのに。
——カチッ
一瞬、音が遅れた気がした。
顔を上げる。
時計は普通に動いている。
針は滑らかに進んでいる。
でも、その動きが、
ほんのわずかに“あとから来る”ように見えた。
「……違う」
ぼくは立ち上がった。
床に足をつける。
感触はある。
確かにある。
でも、その“確か”に、わずかな距離がある。
手を握る。
動きは一致している。
でも、感覚が追いつくまでに、
ほんの一瞬の遅れがある。
それが積み重なる。
碧との会話。
守埜の記録。
自分の記憶。
全部が、少しずつズレている。
合わせようとするほど、
ズレが増えていく。
「……違う」
もう一度言った。
ここは、近い。
でも、合わせれば合わせようとするほど、ぼくの世界から離れていく。
ぼくは目を閉じた。
玉突きの模型が浮かぶ。
一つを押せば、別の場所が動く。
整えようとすれば、別の何かが崩れる。
この世界に合わせるんじゃない。
この世界から、外れる。
その方向に、自分を押す。
ぼくはゆっくり目を開けた。
部屋の輪郭が、ほんの少しだけ歪んで見えた。
その歪みが、むしろ自然に感じられた。
——ここじゃない。
その確信だけが、はっきりと残った。




