第3章= 収束-第9話「着地」
◆第3章= 収束-第9話「着地」
目を開けたとき、まず呼吸が乱れていないことに気づいた。
前みたいに、どこにいるのか分からない不安はなかった。
地面の感触も、光の強さも、最初から“馴染んでいる”。
——着地している。
そう分かった。
研究室を出る。隣には杉山がいる。
距離も、姿勢も、記憶と同じだった。
「……どうだ」
自分から声をかける。
タイミングも、ズレていない。
杉山は少しだけこちらを見て、頷いた。
「今回は……普通っぽいな」
その言い方に、違和感はなかった。
少なくとも、前の世界みたいなズレは感じない。
——近い。
そう思った。
ここは、かなり近い。
胸の奥が、わずかに軽くなる。
ぼくはスマホを取り出した。
迷う理由はなかった。
連絡先を開く。
指が自然に動く。
スクロールする。
——あった。
「碧」
名前を見つけた瞬間、指が止まる。
ちゃんと、ある。
消えていない。
ぼくの記憶と同じ場所に、同じ名前で存在している。
息が、わずかに緩んだ。
通話ボタンを押す。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
「——もしもし?」
聞き慣れた声だった。
胸の奥が、一気にほどける。
「あ……」
言葉が詰まる。
「あっ、お兄ちゃん? どうしたの? 勉強のこと?」
いつも通りの声。
何も変わっていない。
ぼくはようやく息を吐いた。
「いや……ちょっと確認しただけ」
「なにそれ。あっ、夏休みのディズニーのこと? 忘れるわけないからね」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
——生きている。
ぼくの世界と同じように。
「……ああ。楽しみにしてる」
通話を切ると、しばらく動けなかった。
「碧ちゃん、元気そうだったな」
杉山が横から言う。
ぼくは頷いた。
「……うん」
その“うん”は、胸の奥の安堵と直結していた。
でも、その安堵は長く続かなかった。
「そういえばさ」
杉山が続けた。
「守埜の命日、もうすぐだな」
心臓が一瞬だけ止まった。
「……守埜?」
「去年だよ。ほら、病気でさ。急だったじゃん」
ぼくは息を飲んだ。
事故じゃない。
ぼくの言葉とも関係ない。
“行っとけば”とも無関係。
この世界の守埜は、ぼくの選択とは何の関係もなく亡くなっている。
その事実が胸に落ちた瞬間、
軽くなるどころか、胸の奥がふっと空洞みたいに冷えた。
後悔は消えた。
でも、後悔が消えると、あの守埜との時間まで薄まっていく気がした。
「……そう、だったな」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
杉山は気づかない。
「まあ、仕方ないよな。あいつ、ずっと無理してたし」
ぼくは返事ができなかった。
守埜は、ぼくの言葉とは無関係に亡くなっている。
ぼくの後悔は、この世界では意味を持たない。
——じゃあ、ぼくの世界の守埜は?
胸の奥がざわついた。
ぼくの世界では、守埜は事故で亡くなった。
ぼくの「行っとけば?」が関係あったのか、なかったのか、分からないまま残っている。
でも、この世界では——
ぼくの言葉なんて、最初から存在しなかったみたいに、守埜は別の理由で亡くなっている。
その事実が、逆に胸を締めつけた。
ぼくの存在がなんの意味も持たないみたいに。
ぼくの後悔は、どこにも置けなくなった。
「……なあ」
思わず口を開く。
「ここ、変だ」
杉山は首をかしげた。
「変って?」
その返しが、普通すぎた。
ぼくは言葉を探す。
でも、出てこない。
碧は生きている。何も変わったところはない。
杉山もいる。
世界はほとんど同じ。
なのに——
守埜だけが、違う。
ぼくの世界では事故。
この世界では病気。
どちらも本物のようで、どちらも偽物のようだった。
胸の奥が、じわじわ冷えていく。
「……違う」
小さく呟いた。
言葉にした瞬間、確信に変わった。
ここじゃない。
ここは、近いだけだ。
ぼくのいた世界じゃない。
胸の奥の冷たさが、ゆっくり広がっていく。
——もういい。
そう思った。
ここに合わせる必要はない。
ここに馴染む必要もない。
むしろ、ここにいることのほうが間違いだ。
ぼくは目を閉じた。
次を、考える。
ぼくがいた場所。
もっと一致する場所。
「無限に存在する。」教授の言葉がよみがえる。
だから……ぼくのいたい場所はあるはずだ。
その考えが、静かに形になる。
胸の奥で、わずかに何かが動いた。
まだ、玉突きにはならない。
でも、その準備だけは、確実に始まっていた。




