第3章=収束-第8話「焦燥」
◆第3章=収束-第8話「焦燥」
研究室を出た瞬間、胸の奥に張り付いていた重苦しい圧迫感が、不自然なほど薄くなった。
呼吸は深く、乱れもない。
耳に届く音に遅延はなく、足元に落ちる影が勝手に揺れることもない。
世界は一つにまとまり、整然とそこに存在している。
それでも——。
ここは前とは違う、という確信だけが、冷たい澱のように胸の底に残っていた。
隣には杉山がいる。
歩幅も、ぼくとの距離感も、以前の世界と何ら変わりない“いつも通り”だ。
だが、その寸分狂わぬ“いつも通り”が、今は何よりも不気味で、空恐ろしいものに感じられた。
廊下を抜け、キャンパスの生ぬるい風が頬を打つ場所まで歩いたところで、ぼくは堰を切ったように口を開いた。
「……なあ、杉山」
「ん?」
「碧って……知ってるよな?」
杉山は一瞬だけ眉をひそめた。その反応は、ぼくの予想していた通りの、あまりに自然で、あまりに無慈悲なものだった。
「……誰だよ、それ」
胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。
「……知らないのか?」
「知らないよ。お前の彼女か何かか?」
杉山は軽く笑い、冗談めかして続けた。
「なら、もっと話を聞かせろよ」
その言い方は、決して嘘をついているようには見えなかった。演技などではない。彼の記憶の年表には、最初からその名前が刻まれていないのだ。
ぼくはすぐに返事ができなかった。喉の奥に固い塊が詰まっているみたいだった。
杉山はぼくの顔を覗き込み、少しだけ表情を曇らせる。
「……また、か?」
ぼくは答えず、ポケットからスマホを取り出す。
そこで、ぼくは自分の指先を見て、息を呑んだ。
指が、震えていない。
初めて碧がいなくなったあの時は、指が激しく震えて、パスコードを打つことさえままならなかった。心臓が壊れそうなほど脈打ち、視界が涙で滲んでいたはずだ。
それなのに、今は。
ぼくは淀みのない動作で連絡先を開き、機械的な速さでスクロールしている。
——守埜の名前はある。
その文字を見た瞬間、胸の奥がわずかに緩んだが、そんな安堵は一瞬で崩れ去った。
履歴を開く。指が滑るように画面を叩く。
一年前で、止まっている。
そこから先の記録は、剃刀で切り取られたみたいに、きれいに消失していた。
通話も、メッセージのやり取りも、何一つ残っていない。
「……嘘だろ」
呟きながら、もう一度スクロールし直す。戻る。再確認する。
ぼくは、自分の中の「確認の速度」が上がっていることに気づき、愕然とした。
絶望に立ち尽くす間もなく、次の事実を確認しにいっている。
最初はあんなに震えていたはずの手が、今は冷徹なまでに安定している。その効率的な「慣れ」が、一瞬だけ自分でも怖くなった。
「……碧も、守埜も……いない世界なんだな」
その言葉は、口に出した瞬間、重い鉛となって胸の奥に沈み込んだ。
杉山はぼくを見た。
その目は、驚きよりも、どうしようもないものを目にするような戸惑いに満ちていた。
「……何の話をしてるんだよ」
さっきまでの軽薄な調子は消えていた。けれど、その困惑のトーンすらも自然だった。
この世界では、いないことこそが“普通”の景色なのだ。
ぼくは深く息を吸った。肺の奥まで冷え切っていくようだった。
「……教授のところに行きたい」
その声は小さく震えてはいたが、意志ははっきりとしていた。
杉山は短く息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりな。……分かった。行こう」
その声は、突き放すような冷たさはなく、むしろ諦めに似た優しさが混じっていた。
研究室へ戻る道は、さっき通ったばかりのはずなのに、足音の響き方が微妙に違って聞こえた。
蛍光灯の青白い光が、視界の端でわずかに遅れて明滅した気がした。
——前兆だ。
でも、まだ意識は落ちない。まだこの足で動ける。
自分を世界から弾き出そうとする斥力に、必死で抗いながら歩く。
教授の研究室の前に立つと、胸の奥が妙に静まり返っていた。
ノックをする。
一度目返事がない。
二度目、少し強めにノックをすると、ようやく低く落ち着いた声が返ってきた。
「……入っていいよ」
扉を開けると、教授はいつものように机に向かっていた。
ぼくらが室内に入るのを待たず、背中を向けたまま、静かに、けれど断定するように言った。
「戻ってくると思っていたよ」
その口ぶりには、以前よりも増した“確信”が漂っていた。
ぼくは一歩、部屋の奥へ踏み出した。その足音に呼応するように、胸の奥が熱を帯び始める。
教授は読んでいた本をゆっくりと閉じた。
その動作の一つひとつが、永遠に引き延ばされたスローモーションのように見えた。
「……また、ずれたいんだね」
ぼくは何も言わず、ただ深く頷いた。
言葉にする必要はなかった。教授はすべてを見透かしたように続けた。
「君は、まだ動ける。まだ、この場所からは押し出される」
その言葉が発せられた瞬間、世界全体がぐにゃりと沈み込んだ気がした。
音が遠ざかり、輪郭が溶け、影が激しく波打つ。視界は万華鏡のように二重、三重に重なり合い、平衡感覚が消失していく。
教授の声が、はるか遠い底から響いてきた。
「——次の“位置”が、君を呼んでいるよ」
胸の奥で、静かで決定的な玉突きが始まった。
ぼくは息を止め、また新たな先へと押し出された。




