第3章=収束-第6話「欠落」
◆第3章=収束-第6話「欠落」
しばらく歩いたあと、今度はほとんど無意識に、別の名前が口をついた。
「……じゃあ、守埜は?」
理由はなかった。ただ、続けて聞いただけだった。
杉山はすぐには答えなかった。
歩く速度が、わずかに落ちる。
そのまま前を見たまま黙る。
何かを思い出しているというより、言葉を選んでいるような沈黙だった。
「……おい」
小さく呼ぶと、杉山はようやく口を開いた。
「……覚えてないのかよ」
低い声だった。責めているわけでも、驚いているわけでもない。
ただ、どう扱えばいいのか分からないときの、行き場のない声音だった。
ぼくは何も言えなかった。
杉山は一度だけ息を吐く。
それから少しだけ目を逸らして、続けた。
「……守埜、去年……」
そこで言葉が止まる。
続けるかどうかを迷っているのが分かった。
「……亡くなっただろ」
最後は、小さく落ちた。
ぼくはその場で足を止めた。
風の音がする。
遠くで誰かの声がする。
世界は何も変わっていない。
「……いや」
小さく言葉が漏れる。
そのままスマホを取り出し、連絡先を開く。
指は迷わず動く。
碧の名前を探す。
守埜の名前も探す。
スクロールする。戻る。もう一度確認する。
指が止まる。
——碧がない。
一瞬、意味が分からなかった。
見落としているだけだと思った。
もう一度、最初から見る。
ゆっくり、ひとつずつ確認する。
ない。
視界の端が、わずかに揺れた。
呼吸が浅くなる。
もう一度スクロールする。
今度は少し速く。
ない。
指が止まる。
——そんなはずはない。
思い出そうとする。
碧の声。
何気ない言葉。
笑い方。
——出てこない。
何かはある。
確かに、あったはずなのに、形にならない。
掴もうとすると、指の間を抜けていく。
最初から曖昧だったみたいに、輪郭だけがぼやけている。
「……っ」
息が詰まる。
今度は守埜を開く。
名前はある。
そこにある。
だが、それを開いた瞬間、違和感が形になる。
最後の履歴が、一年前で止まっている。
通話も、メッセージも、
そこから先が、何もない。
きれいに、途切れている。
ぼくは画面を見つめたまま動けなくなる。
思い出そうとする。
守埜のことを。
最後に話したときのこと。
そこまでは思い出せる。
その先が、ない。
一年分だけ、削り取られている。
意図的に切り取られたみたいに、そこだけ、何も残っていない。
「……おい」
杉山の声が、すぐ近くで聞こえる。
ぼくは顔を上げた。
何も言えなかった。
世界は変わっていない。
空も、光も、音も、すべてそのままだった。
ただ、そこにあるはずだった時間だけが、少し欠けている。
きれいに削り取られたみたいに。
その欠け方を見て、胸の奥がわずかに冷える。
ぼくが気づけたのは、この二人がいないという事実だけ。
それだけで、もうこれだけの違いがある。
——なら。
気づけていないところでは。
その考えが浮かんだ瞬間、足元がわずかに不安定になる。
ゆっくり息を吐く。
理解した。
ここは間違っていない。
ズレてもいない。
壊れてもいない。
ただ——
ぼくが押し出されてここにいる。
碧はいない。
守埜は、一年前で止まっている。
それが、この世界の形だった。
そしてそのとき、不意に思い出す。
図書館で。喫茶店で。駅前で。
守埜は、そこにいた。
ぼくの言葉に笑って、昔話をして、何でもない顔で、そこにいた。
——じゃあ。
あれは、誰だ。
ぼくの世界の守埜は、もういない。
この世界の守埜は、一年前に亡くなっている。
それなのに、確かに“会った”。
胸の奥で、何かが熱を持つ。
痛みとは違う。
でも、どこにも逃がせない。
「……なんだよ、これ」
小さく呟く。
答えは、どこにもなかった。
ただひとつだけ確かだったのは、
ぼくが再会した守埜は、この世界の守埜ではなかったということ。
そしてその事実が、ぼくがぼくをまた別の場所へ押し出そうと強く考えていた。




