第3章=収束-第5話「消失」
◆第3章=収束-第5話「消失」
ぼくが目を開けたとき、最初に感じたのは静けさだった。
それは単に音がないという意味ではなく、胸の奥に沈んでいた重さごと、どこかに置き去りにしてきたような感覚で、さっきまで確かにあったはずの圧迫が、理由もなくきれいに抜け落ちていることだけがはっきりと分かった。
呼吸は自然で、意識しなくても空気が入ってきて、吐き出すこともできる。
その当たり前の感覚が、逆に現実を確かなものとして支えているように思えた。
——うまくいった。
そう思った。確信ではないが、少なくとも否定する理由はどこにも見当たらなかった。
視界は安定していて、音も遅れず、重なりもない。これまで感じていた“ズレ”の兆候は見当たらず、世界はきちんと一つにまとまって存在していた。
隣には杉山がいる。距離も立ち位置も表情も、記憶の中の杉山と一致していて、そのことが妙に安心感を与えていた。
「……どうだ?」
声をかけると、杉山はほんのわずかに間を置いてから頷いた。
その“間”は小さなものだったが、完全に噛み合っているわけではないような、ほんのわずかな引っかかりを残していた。
「まあ……さっきよりは普通だな」
言葉自体はいつも通りなのに、どこか置き方がずれているような気がして、ほんの一瞬だけ意識が引っかかる。けれどそれを掴む前に、思考は自然と流れていった。
今は問題ない。そう判断して、ゆっくりと立ち上がる。
体は軽く、動作の一つひとつに引っかかりがない。余計な重みだけが削ぎ落とされたみたいに、前の世界よりも確実に動きやすかった。
——これなら。
そう思いかけて、途中で止めた。ここが本当に望んだ場所なのかはまだ分からない。ただ、少なくとも前にいた場所ではないという確信だけがあった。
研究室のドアを開け、廊下へと歩き出した瞬間だった。
ぼくの世界の何かが、ここに置き去りになった気がした。
それは、これまでぼくを繋ぎ止めていた守埜への後悔だった。
かつての世界でぼくを苛んだその感情は、守埜の存在が希薄になったこの場所では、もはや向かう先のない無意味な残響にすぎない。
謝るべき相手も、許しを拒む当事者もいないこの世界では、ぼくの後悔は何の価値も持たない。それは救いなどではなく、ぼくから「後悔する権利」さえも奪い去っていくような、気持ち悪さだった。
それを確かめるように歩くと、足音は遅れず、視界も揺れない。すべてが同じ時間の中に収まっている。
——成功している。
その感覚だけが、静かに残った。
外に出ると、夏の光がそのまま目に入る。眩しさも、温度も、風の流れも変わらず、むしろそれが現実の連続性を保証しているように思えた。違和感はない。少なくとも今は。
——大丈夫だ。
そう思ったとき、不意に言葉が浮かんだ。
「……碧に、会いに行く」
口に出した瞬間、ほんのわずかな引っかかりが生まれる。だがそれを形にする前に、言葉はそのまま続いていた。
「碧、いるだろ」
隣を歩いていた杉山の足が、わずかに止まる。
視線を向けると、眉をひそめていた。
「……誰?」
短く、それだけ返ってくる。
意味がすぐには理解できなかった。
「碧だよ」
当然のように言い直す。説明する必要のない名前のはずだった。だが杉山は首をかしげたまま、「いや……知らないけど」と答える。その言い方には迷いがなく、本当に知らないという顔だった。
言葉が途切れる。思考の中に小さな空白ができる。
それでもぼくはすぐに、それを埋めるように考えを切り替えた。
——気のせいだ。
そう思うしかなかった。
それ以上は追わずに歩き出すと、杉山も何も言わずについてくる。さっきのやり取りは、そのまま流れていった。




