第3章=収束-第2話「試行」
◆第3章=収束-第2話「試行」
キャンパスのベンチで待っていると、杉山はいつも通りの歩き方で近づいてきた。
「悪い、待った?」
「いや」
ぼくも、いつも通りに返した。
そのやり取りの中には、まだ“ズレ”はなかった。
ただ、ぼくの中にだけ、ひとつの方向があった。
「……研究室、つきあってもらえる?」
自然に、その言葉が出た。
杉山は少しだけ眉を上げた。
驚いたというより、何かを察したような表情だった。
「今日、行くのか?今から?」
「うん」
「まあいいけど。なんか気になるし」
その言い方は軽かったが、
どこかで緊張しているようにも見えた。
二人で歩き出す。
夏の光が、地面に薄い影を落としていた。
ぼくの影と杉山の影が、少しだけ重なった。
研究室の前に立つ。
扉の前の空気は、前と同じだった。
温度も、光も、匂いも。
ぼくの位置は揺れなかった。
まだ、何も起きていない。
ノックをすると、すぐに「どうぞ」と声が返ってきた。
扉を開ける。
教授は机に向かっていた。
ぼくらを見ると、軽く頷いた。
「来ると思っていたよ」
その言い方は、前と同じだった。
ぼくは部屋に入る。
杉山も続く。
まだ、何も起きない。
教授は机の横に置いてあった一冊の本を手に取った。
ぼくが前に受け取ったものと同じ表紙。
同じ厚さ。
同じ重さ。
ぼくの記憶と一致している。
「これを読んだかい?」
「……少しだけ」
嘘ではない。
ただ、読んだ内容が“記憶として”残っていないだけだ。
ぼくは椅子に座り、本を机に置いた。
光の角度が、紙の上に薄い影を落とす。
その影が、わずかに揺れて見えた。
「……試したいことがあるんです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がわずかに熱を持った。
教授は黙って見ていた。
何も言わない。
ただ、観察しているようだった。
ぼくは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
呼吸を整える。
視線を本の中央に固定する。
まばたきのリズムを一定にする。
椅子の沈み方を確認する。
机の感触を指先で確かめる。
——無意識のフォーカス。
それは“意識しない集中”。
意図的に作れないはずのもの。
でも、ぼくは作ろうとしていた。
意図的に。
矛盾している。
それでも、やるしかなかった。
「?」
杉山が小さく首をかしげる。
最初の試みは、何も起きなかった。
世界は揺れない。
音も遅れない。
視界も二重にならない。
ぼくは首を振った。
「まだだ」
本のページをめくる。
紙の音が、少しだけ遅れて耳に届く。
その遅れが、ぼくの記憶と一致しない。
そこに、わずかな“差分”があった。
——差分。
ぼくは気づいた。
無意識のフォーカスは、“行きたい”では落ちない。
“押し出されたい”でも落ちない。
落ちるのは——
「ここにはいたくない」という信念が、静かに満ちたとき。
碧が亡くなっている世界。
守埜が亡くなっている世界。
どちらにも、もういたくない。
その瞬間、ぼくの意識が“落ちた”。
世界が、わずかに揺れた。
本の文字が二重になった。
杉山の声が遅れた。
教授の表情が、前の世界と重なった。
机の感触が、二つに割れた。
——来た。
胸の奥で、静かな玉突きが起きた。
ぼくの中の“ぼく”が、もうひとつの“ぼく”に重なった刹那、重なった“ぼく”が、別の“ぼく”を押し出す。
押し出された“ぼく”が、さらにまた別の“ぼく”を押し出す。
音のない玉突きだった。
位置だけが、静かにずれていく。
ぼくは息を止めたまま、その揺れを受け止めた。
恐怖はなかった。
ただ、静かな確信だけがあった。
世界が戻ったとき、ぼくはゆっくりと目を開けた。
杉山がこちらを見ていた。
「……今、なんかした?」
ぼくは小さく頷いた。
「うん。——自分で、動いた。」
その言葉は、驚くほど自然に口から出た。
嘘ではなかった。
実感だった。
ぼくは確信した。
自分は、自分で動ける。




