第2章=界境-第12話「縫目」
◆第2章=界境-第12話「縫目」
夏休みが近づいていた。
講義のあと、守埜と杉山と別れて、ぼくは駅へ向かう道を歩いていた。
空は少し白く霞んでいて、風が弱く吹いていた。
その風の温度が、去年の夏と似ている気がした。
——碧、どうしてるかな。
ぼくには妹がいる。
高校三年生で、頭が良くて、活発で、誰からも好かれる。家ではよく笑うし、外ではしっかりしている。
ぼくの自慢の妹だ。
受験勉強の息抜きに夏休みの終わりにディズニーランドへ行こうと約束していて、ぼくも本気で楽しみにしていた。
そろそろ確認しておこう。
メッセージアプリじゃなくて、直接声を聞きたいし、碧もそのほうが、きっと喜ぶ。
ぼくはポケットからスマホを取り出し、連絡先から「碧」を選んで通話ボタンを押した。
ワンコール目が鳴る前に、機械の声が流れた。
「この電話番号は、現在使われておりません」
足が止まった。画面を見直す。
番号は間違っていない。
アイコンも、去年のままの碧の写真だった。
笑っている。
その笑顔を、ぼくは昨日のことのように覚えている。
電源切ってるのか。機種変したのか。
たまたまかもしれない。
ぼくは深く考えないようにして、母に電話をかけた。
二コールで出た。
「もしもし? あら、篤司?どうしたの?」
ぼくが何か言う前に、母の声が続いた。
「ねえ、篤司、今度の碧の三回忌、ちゃんと来るんだよね」
胸の奥が、ゆっくりと沈んだ。
駅前の人の流れが、急に遠くなった。
「……三回忌?」
自分の声が、自分の耳に少し遅れて届いた。
母は、当たり前のことを言うみたいに続けた。
「もう二年も経つんだから。あなたも、そろそろ……ね」
ぼくは何も言えなかった。
母はぼくの沈黙を気にしたのか、少し声を柔らかくした。
「無理しなくていいけど……来てあげて。あの子、あなたのこと大好きだったんだから」
通話が切れたあと、ぼくはしばらくスマホを見つめていた。
画面が暗くなり、ぼくの顔が映った。
その顔が、どこか遠くの誰かみたいに見えた。
——碧は、生きている。
ぼくの世界では、確かに。
受験勉強の息抜きに行こうって言った。夏休みの終わりにディズニー行こうって言った。
そのときの声も、表情も、全部覚えている。
でも、この世界では——
碧は二年前に死んでいる。
ぼくの世界の“当たり前”が、ここでは存在しない。
守埜は生きているのに。
碧は亡くなっている。
胸の奥が、ゆっくりと熱くなった。
その熱は、痛みとも違う。
怒りとも違う。
ただ、どこにも行き場がないまま膨らんでいく。
現実という形を何も持たないまま。
ぼくは崩れ落ちそうになりながら歩き出した。駅の階段を降りる。
電車の音が近づいてくる。
でも、その音も少し遅れて聞こえる。
階段の途中で立ち止まった。
——ぼくの世界では、碧は生きている。
——この世界では、碧は亡くなっている。
どちらが“正しい”のか分からない。
どちらも本物のようで、どちらも偽物のようだった。
守埜は生きている。
それだけで、この世界に留まりたいと思った。
でも、碧が亡くなっている世界に、ぼくはいたくない。
胸の奥の熱が、喉のあたりまでせり上がってきた。
息が苦しくなる。
——押し出されたい。
その言葉が、自然に浮かんだ。
この世界から。
ぼくの世界から。
どちらでもない、どこかへ。
碧が生きている世界にいたい。
守埜が生きている世界にもいたい。
どちらも失いたくない。
どちらも手放せない。
電車がホームに入ってきた。
風が吹き抜ける。
その風の温度が、ぼくの世界とも、この世界とも違う気がした。
——押し出されたい。ぼくの居場所はここじゃない。
その願いだけが、静かに、確かに、ぼくの中で形になっていた。




