第2章=界境-第11話「痕」
◆第2章=界境-第11話「痕」
次の日、講義室に入った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
守埜も杉山も、昨日と同じ場所に座っている。
昨日と同じように笑って、昨日と同じようにぼくを見た。
——なのに、ぼくの中の“何か”が、昨日と同じ場所に戻らなかった。
席に座ると、椅子の硬さが一瞬遅れて伝わった。
昨日より、その遅れが短くなっている気がした。
世界との距離が、少しだけ縮んだような感覚。
守埜が前を向いたまま言う。
「お前、昨日より普通じゃん」
「そう見える?」
ぼくは返した。
「うん。なんか……馴染んできた感じ」
馴染む。
その言葉が、胸の奥でゆっくり沈んだ。
——どこに馴染んでいるんだろう。
——“馴染む”って、どのぼくのことなんだろう。
黒板にチョークが当たる音が、昨日よりはっきり聞こえた。
そのはっきりさが、逆にぼくを不安にさせた。
講義が終わると、杉山がぼくの肩を叩いた。
「お前さ、最近ちょっと落ち着いたよな」
「落ち着いた?」
ぼくは聞き返した。
「うん。なんか……一年のときより“今のお前”って感じ」
一年のとき。
その言葉が、ぼくの中で曖昧に揺れた。
——一年のときのぼくって、どんなだったっけ。
思い出そうとすると、輪郭がぼやけた。
守埜と杉山の笑い声だけが、やけに鮮明だった。
三人で廊下を歩く。
守埜が前を歩き、杉山が横にいる。
ぼくはその少し後ろを歩いた。
昨日まで違和感があったその位置関係が、今日は自然に感じられた。
その自然さが、逆に怖かった。
守埜が振り返る。
「昼、どうする?」
その声が、昨日よりぼくの知っている守埜に近かった。
近いのに、どこか違う。
違うのに、昨日より気にならない。
ぼくは答えようとして、言葉が喉の奥で止まった。
——この世界の守埜が覚えている“ぼく”は、誰なんだ?
ぼくが覚えているぼくと、守埜が覚えているぼくは、同じ形をしているんだろうか。
「……行くよ」
ぼくはようやく言った。
その声が、自分の声に聞こえた。
昨日よりも、はっきりと。
三人で階段を降りる。
守埜の足音と杉山の足音が重なる。
ぼくの足音も、今日はそのリズムに自然に混ざった。
——昨日まで半拍ずれていたのに。
その“混ざり”が、胸の奥に静かに沈んだ。
階段を降りきったところで、守埜がふと立ち止まった。
「なあ、お前さ」
ぼくは顔を上げた。
「最近、なんか……“戻ってきた”よな」
戻ってきた。
その言葉が、ぼくの中でゆっくり広がった。
——どこに戻ったんだろう。
——“戻る”って、どのぼくのことなんだろう。
ぼくは答えられなかった。
守埜も、それ以上は言わなかった。
ただ、その沈黙の中で、ぼくは気づいた。
昨日まで“違う”と感じていた守埜の癖が、
今日はほとんど気にならなかった。
ペンの持ち方も、歩幅も、笑い方も。
どれも、ぼくの知っている守埜に近づいたのか、ぼくの記憶のほうが変わったのか、もうわからなかった。
そして、その“わからなさ”が、昨日より少しだけ、怖くなかった。
ぼくの中で、何かが静かに溶けていく。
境界の線が、薄く、淡く、にじんでいく。
ぼくの声が、ぼくの声に聞こえるのは、ぼくがそう思い込んでいるだけなんじゃないか。
ぼくの歩幅が、二人と揃っているのは、ぼくが合わせているのか、それとも、ぼくのほうが変わってしまったのか。
自分の輪郭を確かめようとすると、指先が空気をつかむように、形がすり抜けた。
——ぼくって、どこまで“ぼく”なんだろう。
守埜の視線が、ぼくの輪郭を確かめるように揺れた。
その揺れが、ぼくの中の“ぼく”を静かに溶かしていく。
ぼくは、自分の存在がどこにあるのか、わからなくなりかけていた。
そして、その“わからなさ”が、昨日より少しだけ、自然に感じられた。
まるで、ぼく自身がこの世界の空気に混ざっていくみたいに。
そう考えた瞬間、ひとつの疑問が、胸の奥に静かに浮かんだ。
——もし、混ざりきったら、どうなるんだろう。
ぼくは、ぼくのままでいられるのか。
それとも、最初からここにいた“ぼく”に、置き換わるだけなのか。
境界が消える、ということは、どちらかが残るんじゃなくて、どちらも区別できなくなる、ということなのかもしれない。
じゃあ、そのとき、「ぼくがぼくだ」と言っているこの感覚は、どこへ行くんだろう。
記憶があるから、ぼくはぼくだと思っている。
でも、その記憶が少しずつ書き換わっているとしたら、それでも“同じぼく”だと言えるんだろうか。
守埜が知っているぼくに、ぼくが近づいているのか。
それとも、守埜が知っている“ぼく”のほうに、ぼくが上書きされているのか。
ふと、思う。
——もし今、すべてが入れ替わっていたとしても、ぼくはそれに気づけるのだろうか。
気づけないのなら、それはもう、入れ替わっていないのと同じなんじゃないか。
その考えに触れた瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。
確かめようとして、自分の名前を、心の中でゆっくりとなぞる。「北宮・・・篤司」
その音が、ほんの一瞬だけ、自分のものじゃない気がした。
——ぼくは、誰だ。
答えは浮かばなかった。
ただ、その問いだけが、形を持たないまま、胸の奥に沈んでいった。




