表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/54

第2章=界境-第11話「痕」

◆第2章=界境-第11話「痕」

次の日、講義室に入った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。

守埜も杉山も、昨日と同じ場所に座っている。

昨日と同じように笑って、昨日と同じようにぼくを見た。

——なのに、ぼくの中の“何か”が、昨日と同じ場所に戻らなかった。

席に座ると、椅子の硬さが一瞬遅れて伝わった。

昨日より、その遅れが短くなっている気がした。

世界との距離が、少しだけ縮んだような感覚。

守埜が前を向いたまま言う。

「お前、昨日より普通じゃん」

「そう見える?」

ぼくは返した。

「うん。なんか……馴染んできた感じ」

馴染む。

その言葉が、胸の奥でゆっくり沈んだ。

——どこに馴染んでいるんだろう。

——“馴染む”って、どのぼくのことなんだろう。

黒板にチョークが当たる音が、昨日よりはっきり聞こえた。

そのはっきりさが、逆にぼくを不安にさせた。

講義が終わると、杉山がぼくの肩を叩いた。

「お前さ、最近ちょっと落ち着いたよな」

「落ち着いた?」

ぼくは聞き返した。

「うん。なんか……一年のときより“今のお前”って感じ」

一年のとき。

その言葉が、ぼくの中で曖昧に揺れた。

——一年のときのぼくって、どんなだったっけ。

思い出そうとすると、輪郭がぼやけた。

守埜と杉山の笑い声だけが、やけに鮮明だった。

三人で廊下を歩く。

守埜が前を歩き、杉山が横にいる。

ぼくはその少し後ろを歩いた。

昨日まで違和感があったその位置関係が、今日は自然に感じられた。

その自然さが、逆に怖かった。

守埜が振り返る。

「昼、どうする?」

その声が、昨日よりぼくの知っている守埜に近かった。

近いのに、どこか違う。

違うのに、昨日より気にならない。

ぼくは答えようとして、言葉が喉の奥で止まった。

——この世界の守埜が覚えている“ぼく”は、誰なんだ?

ぼくが覚えているぼくと、守埜が覚えているぼくは、同じ形をしているんだろうか。

「……行くよ」

ぼくはようやく言った。

その声が、自分の声に聞こえた。

昨日よりも、はっきりと。

三人で階段を降りる。

守埜の足音と杉山の足音が重なる。

ぼくの足音も、今日はそのリズムに自然に混ざった。

——昨日まで半拍ずれていたのに。

その“混ざり”が、胸の奥に静かに沈んだ。

階段を降りきったところで、守埜がふと立ち止まった。

「なあ、お前さ」

ぼくは顔を上げた。

「最近、なんか……“戻ってきた”よな」

戻ってきた。

その言葉が、ぼくの中でゆっくり広がった。

——どこに戻ったんだろう。

——“戻る”って、どのぼくのことなんだろう。

ぼくは答えられなかった。

守埜も、それ以上は言わなかった。

ただ、その沈黙の中で、ぼくは気づいた。

昨日まで“違う”と感じていた守埜の癖が、

今日はほとんど気にならなかった。

ペンの持ち方も、歩幅も、笑い方も。

どれも、ぼくの知っている守埜に近づいたのか、ぼくの記憶のほうが変わったのか、もうわからなかった。

そして、その“わからなさ”が、昨日より少しだけ、怖くなかった。

ぼくの中で、何かが静かに溶けていく。

境界の線が、薄く、淡く、にじんでいく。

ぼくの声が、ぼくの声に聞こえるのは、ぼくがそう思い込んでいるだけなんじゃないか。

ぼくの歩幅が、二人と揃っているのは、ぼくが合わせているのか、それとも、ぼくのほうが変わってしまったのか。

自分の輪郭を確かめようとすると、指先が空気をつかむように、形がすり抜けた。

——ぼくって、どこまで“ぼく”なんだろう。

守埜の視線が、ぼくの輪郭を確かめるように揺れた。

その揺れが、ぼくの中の“ぼく”を静かに溶かしていく。

ぼくは、自分の存在がどこにあるのか、わからなくなりかけていた。

そして、その“わからなさ”が、昨日より少しだけ、自然に感じられた。

まるで、ぼく自身がこの世界の空気に混ざっていくみたいに。

そう考えた瞬間、ひとつの疑問が、胸の奥に静かに浮かんだ。

——もし、混ざりきったら、どうなるんだろう。

ぼくは、ぼくのままでいられるのか。

それとも、最初からここにいた“ぼく”に、置き換わるだけなのか。

境界が消える、ということは、どちらかが残るんじゃなくて、どちらも区別できなくなる、ということなのかもしれない。

じゃあ、そのとき、「ぼくがぼくだ」と言っているこの感覚は、どこへ行くんだろう。

記憶があるから、ぼくはぼくだと思っている。

でも、その記憶が少しずつ書き換わっているとしたら、それでも“同じぼく”だと言えるんだろうか。

守埜が知っているぼくに、ぼくが近づいているのか。

それとも、守埜が知っている“ぼく”のほうに、ぼくが上書きされているのか。

ふと、思う。

——もし今、すべてが入れ替わっていたとしても、ぼくはそれに気づけるのだろうか。

気づけないのなら、それはもう、入れ替わっていないのと同じなんじゃないか。

その考えに触れた瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。

確かめようとして、自分の名前を、心の中でゆっくりとなぞる。「北宮・・・篤司」

その音が、ほんの一瞬だけ、自分のものじゃない気がした。

——ぼくは、誰だ。

答えは浮かばなかった。

ただ、その問いだけが、形を持たないまま、胸の奥に沈んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ