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第2章=界境-第10話「薄膜」

◆第2章=界境-第10話「薄膜」

次の日、守埜の姿を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

昨日と同じ歩き方で、昨日と同じように前髪を直して、昨日と同じ声で「おはよ」と言う。

その“いつも通り”が、ぼくの中のどこかをゆっくり温めた。

——生きている。

その事実だけで、体の奥がじんわり緩んでいく。

杉山も横から「おう」と言ってくる。

二人の声が重なるだけで、ぼくは少しだけ呼吸がしやすくなった。

講義室に入ると、守埜が前の席でノートを開く。

その何でもない仕草が、妙に現実を引き寄せてくれた。

ペンを持つ手の角度、ページをめくるときのゆっくりした動き。

全部、ぼくの知っている守埜だった。

でも同時に、胸の奥に薄い違和感が残った。

——ぼくは、この世界の“住人じゃない。”みたいだ——

席に座っていても、椅子の硬さが少し遅れて伝わる。

教授の声も、黒板のチョークの音も、ほんのわずかに距離があるように感じた。

世界の輪郭に触れるまで、半歩ぶんの空気が挟まっているような感覚。

それでも、守埜の存在だけは、その距離を一瞬だけ埋めてくれる。

一コマ目が終わると、杉山がぼくの肩を軽く叩いた。

「昨日より全然マシじゃん」

「……そうか」

「うん。顔色戻ってる」

その言い方が、少しだけ安心を深くした。

守埜も振り返る。

「昼、行くよな?」

「……行く」

自然に返事が出た。

昨日までの“遅れ”が、少しだけ薄くなっていた。

学食は混んでいたが、今日はそのざわめきが昨日ほど遠くなかった。

守埜がパンの袋を噛んで破る音が、ちゃんと“今”の音として届いた。

その小さな音だけで、胸の奥が少し温かくなる。

「そういえばさ」

守埜がパンをちぎりながら言った。

「一年のときのサイン会の話、覚えてる?」

胸の奥が一瞬だけ冷えた。

でも、昨日ほど深く沈まなかった。

杉山が笑う。

「お前、あの作家のやつだろ。悩んでたやつ」

「そうそう。で、こいつが言ったんだよ。“行っとけば?”って」

守埜はぼくを見た。

その目は、何も責めていなかった。

ただ、懐かしそうに笑っていた。

ぼくは、ゆっくり息を吸った。

——この世界の守埜は、ぼくの言葉で“行って”、

——そして、生きて帰ってきた。

その事実が、胸の奥にじんわり広がった。

ぼくの世界では、守埜はあの日、あの場所で倒れていた。

でも、この世界の守埜は、ぼくの前でパンを食べている。

「楽しかったよ、あれ」

守埜は続けた。

「会場の近くで事故あったけど」

ぼくは、その笑い声を聞きながら、

胸の奥で静かに安堵が広がっていくのを感じた。

——よかった。本当に、よかった。

守埜が生きている世界で、また三人で歩けるという事実が、ぼくを支えていた。

でも同時に、ぼくの世界の守埜はどうだったんだろう、という問いが、薄い影のように残った。

ぼくの言葉で、あの道を選んだのか。選ばなかったのか。

ぼくの世界の守埜は、どんな顔で、どんな気持ちで、あの日を迎えたんだろう。

答えはどこにもなかった。

「お前、今日は普通だな」

杉山が言った。

「昨日なんか半拍ズレてたぞ」

「……そうか」

「うん。でも今日は大丈夫」

その“普通”という言葉が、ぼくの中でゆっくり沈んでいった。

守埜がパンを食べ終えて、「午後どうする?」と聞いてくる。

その声が、ちゃんと“今”の距離で届いた。

ぼくは小さく頷いた。

「……行くよ」その返事が自然に出た。

安堵は確かにあった。

守埜が生きている世界で、ぼくはまた、守埜と大学生活を続けられる。

でも、胸の奥のどこかに、裂け目のようなものが残っていた。

——ぼくは、この世界の“住人じゃない”

——でも、この世界の守埜を見ると、本当に安心する。

その二つが、静かに同じ場所に沈んでいた。


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