第2章=界境-9話「離層」
◆第2章=界境-9話「離層」
喫茶店を出たあとも、三人で並んで歩いた。
夕方の光が少し傾いていて、建物の影が長く伸びていた。
守埜はいつもと同じ調子で、他愛もない話を続けていた。
「大学ってさ、思ってたより自由すぎて逆に何していいかわかんなくね?」
杉山が笑う。
「お前は高校のときからそんな感じだったろ」
「いや、あのときは一応枠あったじゃん。今はなんでもできるから逆に困るんだよ」
その会話を、ぼくは半歩遅れて聞いていた。
言葉はちゃんと耳に入っているのに、意味だけが少し遅れて届く。
音と理解のあいだに、わずかな隙間がある。
守埜がふとこちらを見た。
「お前はどうなんだよ」
「……え?」
「だから、大学。楽しいかって」
一拍遅れて質問の意味を拾う。
「ああ……まあ、普通かな」
自分でも曖昧な返事だと思ったが、守埜は特に気にした様子もなく「だよな」と頷いた。
その“だよな”の軽さが、逆に現実感を強くした。
駅前に着くと、人の流れが少し増えていた。
改札に向かう人、コンビニに入る人、立ち止まってスマホを見る人。
それぞれがそれぞれの動きをしているのに、不思議とぶつからない。
すべてが滑らかにつながっている。
ぼくだけが、その流れにうまく乗れていない気がした。
「じゃ、俺こっちだから」
守埜が駅とは反対の道を指さした。
「またな」
「おう」
杉山が手を上げる。
ぼくも遅れて小さく頷いた。
守埜は振り返らずに歩いていく。
その背中を見ながら、ぼくは一瞬だけ、強い衝動に駆られた。
——呼び止めるべきじゃないか。
何を言うのかは分からない。
事故のことか、サイン会のことか、それとも——
でも、その衝動はすぐに消えた。
言葉にしたところで、意味が通じるとは思えなかった。
守埜は、何も知らない。
この世界では、何も起きていない。
それが当たり前だった。
「行ったな」
杉山がぼそっと言った。
「……ああ」
「なんか、お前ほんと変だぞ今日」
軽い言い方だったが、視線は少しだけ鋭かった。
ぼくは言葉を探す。
「……そんなに?」
「うん。なんていうか、話が半拍ズレてる感じ」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
半拍。
自分で感じていた違和感を、他人の言葉で言い当てられた気がした。
「疲れてるんじゃねえの?」
杉山はそれ以上深く追わずに言った。
「最近ずっと変なこと考えてるだろ」
「……まあ」
否定はできなかった。
「教授のやつ?」
「……多分」
杉山は「ほどほどにしとけよ」と笑った。
その笑い方はいつも通りで、そこには何の違和感もなかった。
「じゃあな。俺もこっちだから」
改札の前で杉山と別れる。
人の流れに押されるようにして、ぼくは一人になった。
電車に乗り、座席に腰を下ろす。
窓の外の景色が流れていく。
ビルの影、道路の白線、信号の光。
すべてが連続しているはずなのに、どこか一瞬ごとに切り離されているように見えた。
目を閉じる。
守埜の声が浮かぶ。
「お前が言ったんじゃん。“行っとけば?”って」
あのときの記憶と、さっきの会話が重なる。
ぴったり一致しているはずなのに、どこかが合っていない。
ぼくの中だけが、違う位置にある。
目を開けると、車内のアナウンスが流れていた。
次の駅の名前が告げられる。
その声が、一瞬だけ遅れて聞こえた気がした。
ぼくは周囲を見回す。
誰も気にしていない。
隣の人はスマホを見ていて、向かいの人は眠っている。
世界は何も変わっていない。
変わっているのは——
「……ぼくだけか」
小さく呟くと、その声がほんのわずかに遅れて、自分の耳に届いた気がした。
確かめるように、もう一度息を吐く。
音は、一度しか鳴らない。
遅れもない。
今のは気のせいだったのかもしれない。
でも、その“気のせい”が消えない。
電車が揺れる。
吊り革がわずかに揺れ、光が窓に反射する。
そのすべてが、少しだけ後から置かれていくように見えた。
ぼくは手を握った。
確かにここにいる。
この座席に触れている。
電車に乗っている。
それは分かる。
でも——
その“分かる”までの距離が、ほんのわずかに遠い。
守埜は、普通だった。
杉山も、普通だった。
世界も、普通に動いている。
だからこそ、逃げ場がなかった。
ずれているのは、ぼくだけだ。
その事実が、静かに、確実に、胸の奥へ沈んでいった。




