第2章=界境-第8話「岐点」
◆第2章=界境-第8話「岐点」
さっきの軽さが、まだ消えていなかった。
その軽さが、胸の奥でまだ形を保っていた。
守埜と向き合ったあと、しばらく言葉を失っていたぼくに、杉山が「どうしたんだよ」と小声で聞いてきたが、返事はできなかった。
頭の中では、玉突きの模型がゆっくりとずれていく映像だけが繰り返されていた。
そのずれが、まだ続いている気がした。
そんなぼくの様子を気にしたのか、守埜が言った。
「この後さ、3人でどっか行かね?」
杉山が「いいじゃん」と軽く乗った。
ぼくはうまく頷けなかったが、断る理由もなかった。
頷いた瞬間、胸の奥の軽さが、また少しだけ動いた気がした。
図書館を出て、大学の近くの喫茶店に入った。
午後の店内は空いていて、窓際の席に座ると、外の光がテーブルに薄く落ちた。
その光が、どこか遠い世界のもののように見えた。
アイスコーヒーの氷が静かに溶けていく音だけが聞こえた。
「なんか懐かしいな、こういうの」
杉山がストローを回しながら言った。
「最近一年の時みたいにつるまくなったよな」
守埜が続ける。
ぼくは、二人の声を聞きながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
一年の時の話題は、今のぼくにとって危険だった。
でも、止めることはできなかった。
止めたら、何か大切なことが分からなくなってしまう気がした。
「そういえばさ」
守埜がふと思い出したように言った。
「一年の夏前だっけ? 俺、サイン会行ったじゃん」
ぼくの心臓が一瞬止まった。
「サイン会?」
杉山が笑う。
「お前、あの作家好きだったよな。星 新二だっけ?」
「そう、そう、星 新二」
守埜は肩をすくめた。
ぼくは、呼吸の仕方を忘れたみたいに固まっていた。
サイン会。
守埜が“寄りたいところ”と言っていた場所。
ぼくが「行っとけば?」と言った、あの日。
「……それ、いつの話?」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
「え? 一年の夏前だよ」
守埜は不思議そうにぼくを見る。
「お前が言ったんじゃん。“行っとけば?”って」
ぼくの背中に冷たいものが走った。
「俺、迷ってたんだよ。授業終わってから行くかどうか。
で、お前が背中押したから行ったんだって」
杉山も頷く。
「そうそう。お前、あのとき珍しく即答したよな」
二人とも、当たり前のことのように話していた。
ぼくにとっては初めて聞く事実なのに。あの時杉山もいたのか?
記憶の輪郭が、少しずつずれていく。
「で……サイン会、どうだったんだ?」
ぼくは、声が震えないように気をつけながら聞いた。
「普通に楽しかったよって、言ったじゃん」
ぼくは聞いてなかった。記憶になかった。
守埜は笑った。
「でもさ、会場の近くで事故あったんだよ。救急車来ててさ。ちょっと怖かったけど、まあ関係なかったし」
その瞬間、ぼくの視界が揺れた。
事故?
サイン会の近く。
救急車。
ぼくの世界の守埜は——どっちだったんだ?
サイン会に行ったのか?行かなかったのか?
ぼくの「行っとけば?」で、道を変えたのか、変えなかったのか。
ぼくの世界では、帰路とは違う道で守埜は事故に遭った。
でも、それがサイン会に向かった結果なのか、別の理由なのか、ぼくには確かめようがない。
記憶の層が、静かにずれていく。
「どうした?」
守埜がぼくの顔を覗き込む。
「いや……なんでもない」
なんでもなくはなかった。
胸の奥がざわざわして、落ち着かなかった。
ぼくの世界の守埜は、どんな選択をしたんだろう。
ぼくの言葉は、本当に関係なかったんだろうか。
それとも——
「お前さ」
杉山が笑いながら言った。
「昔のことなのに、なんでそんな真剣なんだよ」
ぼくは返事ができなかった。
昔のことじゃない。
ぼくにとっては、まだ終わっていない。
守埜は、生きている。
でも、それは“この世界の守埜”だ。
ぼくの世界の亡くなった守埜は、あの日、どうしてあの道を選んだんだろう。
ぼくはアイスコーヒーを一口飲んだ。
氷がカランと鳴った。
その音が鳴った瞬間、ほんのわずかに遅れて、もう一度同じ音がした気がした。
その遅れが、胸の奥の軽さと同じ場所で響いた。
そして、再び心が重さを増した。




