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第2章=界境-第7話「転位」

◆第2章=界境-第7話「転位」

そのときだった。

頭の奥で、何かが弾けるような感覚がした。

ぱちん、と小さな音がしたような気がしたが、実際に鳴ったのかどうかは分からない。

視界が一瞬だけ白く揺れ、別の記憶が割り込んできた。

——玉突き。

山下教授の研究室で見た、透明なレールの上の模型。

一つの玉が動くと、隣の玉が押され、そのまた隣が押し出される。

順番に、静かに、位置がずれていく。

「世界はね、少しずつ押されて、ずれていくんだよ」

教授の声がよみがえった。

あのときは、世界の話だと思っていた。

でも今は違う。

押されていたのは——

世界じゃなくて、ぼくのほうだ。

その理解が、胸の奥にゆっくり沈んでいった。

沈んでいくのに、底が見えなかった。

ぼくは、この世界のぼくじゃない。

事故で守埜を失った世界のぼくではなく、守埜が生きている世界のぼくなんだ。

世界が変わったんじゃない。

ぼくが押し出されて、別の位置に立っている。

説明できるわけじゃない。

証拠があるわけでもない。

ただ、そうとしか思えなかった。

守埜が、ぼくを見ている。

その視線が、記憶の中の守埜とぴったり重なる。

声の温度も、呼吸の間も、姿勢の癖も、全部。

ぼくは、ぎこちなく口を開いた。

「……うん」

声が少し震えた。

震えた理由を説明できる言葉が見つからなかった。

守埜は気づいたのか気づいていないのか、

いつもの調子で軽く笑った。

「なんだよ、その顔」

ぼくは返事に迷った。

何を言えばいいのか分からなかった。

事故のことを知っているのは、ぼくだけだ。

この世界の守埜は、何も知らない。

「いや……ちょっと驚いただけ」

それが精一杯だった。

守埜は「ふーん」と言って、また本に視線を落とした。

ページをめくるでもなく、ただそこに目を置いている。

その姿が、あまりにも“いつもの守埜”で、胸が痛くなった。

ぼくは席に座ることもできず、立ったまま守埜を見ていた。

視界の端で、杉山が小さく咳払いをした。

ぼくはようやく椅子に腰を下ろした。

心臓の音がやけにうるさかった。

手のひらが汗ばんでいた。

視界が少し揺れていた。

——ぼくは、どこから押し出されてきたんだ?

そんな問いが浮かんだ。

浮かんだ瞬間、頭の奥がひやりとした。

でも、答えは出なかった。

ただ一つだけ確かなのは、ぼくが知っている“あの世界”とは違うということ。

守埜が生きている。

それだけで、この世界はぼくの知っている世界とは違う。

そのとき、不意に胸の奥がざわついた。

あの“既読”の光景が、唐突によみがえった。

ぼくは触れていないのに、一瞬だけついた既読。

あれは、ぼくのスマホが勝手に反応したんじゃなくて——

別の世界の杉山が、先に読んだ痕跡だったのかもしれない。

そして、守埜の文体のメッセージが一瞬だけ現れて、すぐに消えたあの感覚。

あれも、ただの見間違いじゃなかったのかもしれない。

どこかの“守埜”が送った言葉が、ほつれ目から漏れ出して、この世界のぼくの画面に、ほんの一瞬だけ触れた。

ぼくが押し出される前に起きた“揺れ”だったのかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに合わさった。

説明できるわけじゃない。

でも、あのときの“ほつれ”は、ここへつながっていた気がした。

「なあ」

守埜が急に顔を上げた。

ぼくはびくっとした。

「お前、今日なんか変じゃね?」

「……そうか?」

「うん。なんか、緊張してるみたいな」

ぼくは言葉に詰まった。

緊張なんてものじゃない。

でも、それを説明することはできなかった。

「まあ、いいけどさ」

守埜はそう言って、また本に目を戻した。

その軽さが、逆にぼくを落ち着かせた。

ぼくは深く息を吸った。

肺の奥まで空気が入る感覚が、少しだけ現実を取り戻させた。

この世界のぼくとして、この世界の守埜と話すしかない。

事故のことを知っているのは、ぼくだけ。

あの後悔を抱えているのも、ぼくだけ。

でも、今目の前にいる守埜は、生きている。

その事実だけが、ぼくを支えていた。

「……守埜」

ぼくは小さく呼んだ。

守埜は顔を上げた。

「ん?」

「また……話そうな」

守埜は一瞬きょとんとしたあと、

いつものように口元だけで笑った。

「当たり前だろ」

その笑顔を見て、胸の奥がじんわり熱くなった。

熱さが、ゆっくりと広がっていく。

ぼくは、この世界で生きていけるのかもしれない。

ぼくの世界の守埜のことは忘れられない後悔もある。

でもこの世界の守埜と、もう一度。

そう思った瞬間、胸の奥で、何かがふっと軽くなるのを感じた。

あの世界で抱えていたはずの重さが、この世界の守埜の存在に触れて、わずかに薄まっている。

薄まることに、ほっとしている自分がいた。

その“ほっとした”という感覚が、いちばん後ろめたかった。

痛みを手放したいわけじゃないのに、手放せる場所に来てしまったことに、どこかで安堵している。

その安堵が、胸の奥で静かに沈んでいった。

この世界の守埜と生きていくことで、あの世界の守埜に向けたはずの責任が、少し軽くなっている気がした。

軽くなって、息がしやすくなる。その呼吸のしやすさが、いちばん痛かった。


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